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第一部 主任看護師セラと、ある間諜の話 ①〜主任看護師セラ〜

いよいよ本編スタートです!

完璧な負傷計画というのは、俺が流浪の傭兵生活の中で身につけた、数少ない特技だった。


 剣の腕ではない。


 戦術眼でもない。


 ましてや、勇気でもない。


 どこを斬られれば死なずに済むか。


 どの程度血を流せば、周囲が「こいつは後送しろ」と判断するか。


 どの顔をすれば、後で突撃加算報酬を請求できるか。


 それを俺は、三年の傭兵生活で、嫌というほど学んだ。


 俺の名は、レオン。


 便宜上は、ただの傭兵だ。


 本名を全部言えば、面倒が増える。


 昔の肩書きまで言えば、首の値段が跳ね上がる。


 だから今は、レオンでいい。


 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。


 そして今日、その唯一の特技が、見事に不発だった。



 ◇



「……気がつきましたか」


 低い、戦場慣れした声がした。


 けれど最後の一音が、ほんの少しだけ優しい。


 ──ああ、また、惚れるな。


 俺が目を覚まして最初に思ったのが、それだった。


 我ながら、頭の中身がしっかり生きている証拠だと思う。


「……ああ」


 声を出した。


 出した、というより漏れた、というのが正確だった。喉が砂を呑んだみたいに乾いている。三日ぶりか、四日ぶりか、自分でもよく分からない。


 時間の感覚というのは、寝起きで一番最初に裏切られる感覚だ。


 そんな朧げな時間を過ごしているうちに、少しずつ光に目が慣れてくる。


 粗末な布が、天井のすきま風でゆらりと揺れていた。布の隙間から漏れた春の光が、女の顔の輪郭を、逆光で薄く縁取っている。


 ようやく、その顔が見えた。


 二十五歳前後だろうか。


 黒い髪を後ろで簡単にまとめている。後れ毛が一筋、頬の脇に落ちていた。背は高い。細身だが出ているところはしっかり出ていて、ぴっちりした看護服の上からも発育の良さが一瞬で分かる体つきだった。


 また、立ち方には力がある。


 看護師というより、剣士に近い背筋だった。


 目元が涼しい。


 唇の真ん中に、小さな笑い皺がついている。


 たぶん、よく笑う人だ。


 ただし、心からの笑顔ではない。患者を安心させるための作り笑顔だ。つまり、仕事人の顔だ。


「動かないでください」


 乾いた声で、彼女は俺の肩を細い指で押し戻した。


 それだけで、全身に電流みたいな痛みが走った。


「……ッ」


「動くと、縫い直しになります」


 この女、顔は笑っているけれど、目が笑っていない。


「……動こうとしてないんだが」


「動こうとした顔でした」


「俺の顔だけで分かるのか」


「あなたで百三人目です」


 作り笑顔をさらに強化して、彼女は淡々と告げた。


「何が」


「肩を斬られて運ばれてきて、目覚めて最初に動こうとした傭兵さんの数です」


 あ、これは。


 手強い相手だ。


「主任ッ! もう一人運ばれた!」


 遠くから声が飛んできた。


 彼女は俺から視線を一度だけ外した。


 それから「分かりました」と短く返す。


 その声は、病棟の端までまっすぐ通った。


 怒鳴ってはいない。だが、誰も逆らわない声だった。


 この野戦病院では、たぶん彼女が一番上の立場の看護師なのだろう。


「ここを出る時には、肩の包帯を替えに、必ず私のところへ来てください」


「あんたが主任さん?」


「主任看護師のセラです」


「セラさん」


「さんはいりません」


 まったく、愛想がない。


 愛想がないのに、なぜか目を離せない。


「いや、看護してくれる相手を呼び捨てにはできないので、俺はセラさんと呼ばせてもらう」


「好きにしてください」


 セラさんはそう言って、俺の枕元から立ち上がった。立ち上がる動作にも無駄がない。最後にもう一度、俺を見下ろした。


「レオンさん」


「なんだ」


「傷が良くなるまで、大人しくしていてください。何か面倒ごとを起こしそうな顔なので、少し心配です」


「なるほど。善処しよう」


「はい、お願いします」


 さらりと言って、セラさんは俺の包帯の端を指でとん、と叩いた。


「傷が開く動きをしたら、許しません」


「物騒だな」


「治療した患者には、治療した側にも責任があります。これは契約です」


「そんな契約をした覚えがないぞ」


「あなたが寝ている間に、契約は成立しています」


 そう言って、今度はにこりと本当の笑顔を浮かべて、セラさんは病棟の奥へ歩いていった。


 俺は、歩く後ろ姿にもう一度目をやった。


 ……看護師に契約で縛られたのは、たぶん人生で初めてだ。


 天井の梁が、まだぼんやりと滲んで見える。


 古い梁だ。煤が層になって張りついている。集会所のものだろう。リヴェンのどこかの集落の集会所を、慌てて病院に転用したやつだ。


 床板の継ぎ目が均等じゃない。建てたのが大工だけではなく、村の手の余った男たちだったことが分かる。窓の隙間から、春先の冷たい風が入ってきた。


 消毒液の匂い。


 血の匂い。


 湿った布の匂い。


 それから、どこか遠くで炊かれている麦粥の匂い。


 野戦病院の匂いだった。


 俺は左手だけ動かして、自分の体を上から下まで確認した。


 右肩。分厚く包帯が巻かれている。傷の深さの割には、出血は抑えられているらしい。おそらくセラさんの腕は本物だ。


 右の脇腹にも何か巻かれている。覚えがない。たぶん突撃の最中に、矢でも掠めたのだろう。意識を失う頃には、もう全身、どこを切られたか覚えていなかった。


 左腿に小さな擦り傷。


 全体としては、生存六十パーセント超えの計算通り。


 むしろ計算より少し良い。


 息を吐いた。


 病院だ。


 野戦病院だ。


 俺は、生きている。


「目が覚めたのか、兄ちゃん」


 左隣から、声がした。


 寝台──というより、藁を敷いた台──の隣に、もう一つ寝台がある。横になっていたのは、若い男だった。


 いや、若い男、というのも違う。


 まだ少年だ。十二か十三か、それくらい。痩せていて、頬の輪郭が骨ばっている。髪は赤茶けて、戦場の埃で艶を失っていた。


 腹に、分厚く包帯が巻かれている。


 腹の包帯は、普通、悪い徴候だ。


「ああ。目が覚めたよ」


「あんた、運ばれてくる時、すげえ重傷者みたいに見えた」


「だろうな。本人もそう思ってた」


「でも、もう喋れるんだな」


「俺は喋るのが趣味でね」


 少年が小さく笑った。


 それから、ほんの少し顔を歪めた。腹が痛むらしい。


「すまん。笑わせるつもりじゃなかった」


「いや、いいよ。久しぶりに笑った」


 俺は少年の方をちらりと見た。


 顔色が悪い。


 目だけが、まだ少しだけ生きている。


「初陣か」


「分かるか」


「目を見れば、まあ」


「……一週間前」


「一週間で、腹に来たか」


「一週間で、腹に来た」


 少年がぽつりと言った。


「兄ちゃん、生き残るコツって、あるのか」


 俺は、天井を見上げた。


 古い梁。


 その向こうに、たぶん春の空がある。


 俺は嘘半分、本気半分で、適当に話を始めた。


「生き残るコツは、ひとつだけある」


「なんだ」


「逃げる勇気だ」


「……それ、コツなのか」


「コツだ」


「逃げて生き残った奴も、結局そのあと死ぬんじゃないのか」


「死ぬ。だが、逃げた分だけ長生きする。死ぬ前に酒が飲める。女に惚れる時間が長くなる。場合によっては、女に振られる時間も増える」


 自分で言っていて笑えてくるが、これは意外と本音だ。誰でもいつか死ぬ。傭兵なんて仕事は、誰よりも早くその瞬間が来てもおかしくない。


 だからこそ、一秒でも泥臭く生き延びて、死ぬ時に後悔が残らないように生きるのが大事だ。そう自分に言い聞かせるように、俺は言った。


「兄ちゃん、それ、生き残るコツじゃなくて、楽しく死ぬコツだろ」


「鋭いな。お前、頭はいい」


「腹が刺されてなきゃ、もう少し頭は回るんだ」


「腹は治る」


「治るかな」


「治る。お前みたいに憎まれ口がきける奴は、まだ大丈夫だ」


 少年が、もう一度笑った。


 今度は、痛そうな顔をしなかった。


 日が傾く頃、引き戸が軋みながら開いた。


 見慣れた男が入ってきた。


 黒髪を後ろで束ね、古びた革鎧の上からでも、貴族の館に立つ家令のような硬さが滲んでいる。


 戦場と、寝床のある場所とで、雰囲気の落差がやや激しい男だ。


 リューリック。


 俺の家臣。


 俺の護衛。


 俺の過去を捨てきれない男。


 寝台の脇まで歩いてくると、彼は屈んで、声を落とした。


「殿下、まだご無事のようで」


 いつもの家臣口調で、いつもの呼び方だ。


 声を落としたのは、こいつなりの、わずかな譲歩らしい。


「……だから、その呼び方、ここでは」


「家臣として、他の呼称は採用しておりません」


「採用しろと何度言えば」


「いたしかねます」


「お前の本義、ここでもご出陣か」


「家令の家系の副業の本義は、場所を選びません」


「便利な家令だ」


「不便な殿下です」


 もう、こいつとは漫才だ。


 祖国滅亡の前から付き人ではあったが、長年にわたる放浪生活と傭兵生活を通じて、名実ともに俺の家臣であり相棒となった。日夜行動を共にしていれば、こうもなる。


 俺は、ちらっと隣の少年を見た。


 眠っていた。


 いや、寝てはいない。目を閉じているが、息の音で起きているのが分かる。


 少年は、何も言わない。


 たぶん、何も聞いていないことにしているのだ。


 戦場帰りの傭兵には、いろいろ「触れない方がいいもの」がある。


 それは、戦場で覚える礼儀だ。


 少年は、もう戦場の礼儀を覚えている。


 いい子だ。


 いい子のまま、生きてくれ。


「で、状況は」


「王国軍司令部の調査官が、明日の午後にこちらへ来るそうです」


「俺の勇敢な負傷を褒めに?」


「殿下の負傷は、勇敢というより計算でございます」


「その言い方はなんだかなぁ」


 俺の不満そうな顔を見なかったことにして、リューリックが話を進める。


「ただ、その調査官が来る前に、少々片付けたい件がございます」


「片付けたい件」


「補給商人の一人が、おかしいのです」


「お前、今度は商人にまで目をつけ始めたのか」


「家令の家系の副業の本義です」


「まったく、お前の副業は本当に広いな」


 リューリックは声をさらに落とした。


「彼は納品後も病棟に残りすぎています。負傷兵の移送日程、薬品の入庫日、軍医の巡回経路。聞いている内容が、商人のものではありません」


「報告したのか」


「老軍医殿には、それとなく」


「それとなく、とは」


「傭兵レオンが妙な商人に気づいた、と」


「勝手に俺を使うな。俺はついさっき目覚めたばかりで何も知らんぞ」


「使いやすい位置におられましたので」


「俺は道具か」


「殿下は主君です」


「主君を道具にするな」


 リューリックは、少しだけ笑った気配があった。


 だが、顔は崩さない。


「殿下が動かれる必要はありません。ただ、顔を覚えておいてください。そして、万一、彼が動いた時に、声を上げる程度のことを」


 リューリックは、すべての事はこちらで片づけるので、状況だけは把握しておいてほしい、と言わんばかりの様子で頭を下げながら言った。


「声、ね」


「お声には、自信がおありかと」


「あほ、もともとこんな状態では声を上げる程度しかできないわ!」


 と、期待通りの大きな声で家臣の言葉を返した。


「ところで、殿下」


「なんだ」


「先程の主任看護師の方ですが」


 リューリックが目を細めて、俺を見透かすように言った。


「……」


「惚れた顔をしておられました」


「お前、見るな」


「家臣として、見ないわけにはまいりません」


「家臣として、見るな」


「いたしかねます」


「お前のいたしかねますは、際限がないな」


「際限がございません」


「……本人には言うなよ」


「絶対に申し上げません」


「絶対って言ったな。絶対だぞ」


「家令の家系の副業の本義として、絶対です」


 信用できない。


 たぶん、こいつは申し上げる。


 懇切丁寧に申し上げるに決まっている。


 そんな確信を俺が抱いていることも知らずに、リューリックは淡々と部屋を去った。


 彼の足音が病棟の戸の向こうへ消えてから、俺はもう一度、天井を見上げた。


 古い梁。


 その向こうに、また春の空がある。


 ……動くのか、俺は。


 答えは、たぶん、もう出ていた。


引き続き楽しんで下さい。

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