プロローグ
「百三人目、と思ったのに」
戦場で死にかけた傭兵レオンは、目を覚ました瞬間、看護師にそう言われた。
元王子。現傭兵。二十八歳。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
看護師、薬師、外科医、獣医、助産婦。
大陸の町々で出会う人々に叱られ、縫われ、殴られ、時々惚れながら、国を失った王子が街道を進む物語です。
笑いと色気と戦場と政治が混ざる、死にかけ医療ラブコメ・大陸政治ロードファンタジー。
プロローグから、お付き合いいただければ嬉しいです。
死神は、案外と無口だ。
──と、誰かが言っていた気がする。
誰だったかは思い出せない。たぶん、死ぬ前に言ったやつだろう。生きてる奴が、そんな気の利いたことを言う暇はない。
鼻先を、矢が掠めた。
「うわっ」
反射で身を傾けたから助かった。傾けなかったら、今頃、俺の喉に羽根が生えていた。生え変わったところで人生が楽になるわけじゃないが、確実に短くはなる。
春先のぬかるみが、ブーツの底を吸って離さない。
一歩進むのに、普段の三倍の力がいる。泥は重い。血を吸った泥は、もっと重い。そこに踏み込むたび、どこかの誰かの体温を靴底で踏んでいるような気がした。
これだから春先の戦場は嫌いだ。
冬は寒い。
夏は臭い。
秋は気が滅入る。
春は泥が人を引きずる。
結局、戦場が嫌いだという話に落ち着く。
「殿下、左です」
リューリックの声。
落ち着いた、いつもの家臣口調だ。戦場のど真ん中だというのに、書斎で茶を差し出してくる執事みたいな声で、左、と言う。
「うわっ、マジか!」
俺は反射的に剣を振った。
手応えがあった。
一拍遅れて、誰かの悲鳴が聞こえた。
「……まだ後ろが見えていませんね」
「後ろに目がある人間なんているか」
「ですから、私がおります」
「その理屈、頼もしいけど気持ち悪いんだよ」
視界の隅で、リューリックの剣が三人分の影をまとめて払った。音が薄い。
人を斬る音が薄い男は、たいてい化け物だ。
こいつ──リューリック──は、化け物だ。
黒い髪を後ろで束ね、泥の戦場でも背筋が曲がらない。古びた革鎧の上からでも、貴族の館に立つ家令のような硬さが滲んでいる。そのくせ剣だけは、誰よりも速い。
俺の三歩後ろに立って、俺の死角の死角まで見ている。
雑兵二人が側面を狙ってきても、俺が認識する前に、もう片付いている。片付いた死体に俺は気づかない。気づくのは、戦闘が終わってからだ。
公国随一の剣。
昔はそう呼ばれていた。
滅びた公国の随一の剣。称号としての価値は、滅亡と同時にゼロになった。だが、こいつ本人にとっては、その腕が「俺の護衛」という一点に集約されてから、価値は逆に膨らんだらしい。
こいつにとっての世界は、もう俺一人で出来ている。
重い。
忠義が重い。
たまに、俺の命より重い。
「それから、殿下って呼び方、戦場ではやめろって何度言った」
「家臣として、他の呼称は採用しておりません」
「採用しろ。お前のその一言で、俺の首の値段が上がるんだよ」
「殿下の首に値段を付ける連中の品位に問題がございます」
「俺の品位より命を守れ」
「命は守っております」
「名前の方も守れ!」
「検討いたします」
「絶対しない声だろ、それ」
リューリックは返事をしなかった。
つまり、検討しないということだ。
俺は舌打ちした。
顔だけは、昔から妙に褒められた。
王子だった頃は、侍女たちが髪を整え、襟を直し、俺をそれらしく見せていた。今は違う。金茶の髪は傭兵宿の安い刃で雑に切られ、頬には泥と汗が貼りつき、鎧は安物だ。顔にも腕にも、細かい傷が増えた。
それでも背筋だけは、なぜか昔の癖で伸びている。
我ながら、面倒な亡国育ちである。
「殿下、調子に乗っておられますね」
「乗れるかよ。今さっき死にかけたところだわ」
「乗っておられます」
リューリックは家臣として、主をたしなめるように淡々と言った。
反論しつつ、確かな自覚はあった。
なにせ勝ち戦だ。
今日の仕事は、王国側からの「国境警備支援」──というのが書類上の正式名称だ。実態はもう少し単純で、リヴェン領内の村に勝手に入り込んだ帝国軍を叩き出せ、という話に過ぎない。
リヴェンは小さい。
帝国にも王国にも、いつ呑まれてもおかしくない。だが、片方が呑み込もうとすれば、もう片方が必ず横から噛みつく。
だからリヴェンは、今日も辛うじて地図の上に残っている。
弱小国の生存戦略としては最悪で、そこそこ有効だった。
帝国は二日前、リヴェン国境から二キロほどの村落を百五十で強襲し、勝手に仮設拠点を築き始めた。リヴェンは独力で押し返せない。そこで王国が、国境沿いに遊撃として置いていた傭兵部隊──つまり俺たち──を派遣した。
リヴェンは助かる。
王国は帝国の足を引っ張れる。
傭兵には金が入る。
三方良し、というやつだ。
もちろん、誰も善意で動いていない。
兵力差は、こちら三百。向こう百五十。
倍の数。
地の利は五分。指揮官の腕も悪くない。
こんな簡単な戦は、ここ最近では珍しい。
もう半分は終わった。
あと一押しで帝国軍が崩れる。崩れれば敵は逃げる。逃げれば戦は終わる。終われば、宿に戻って、安酒を飲んで、ついでに評判のいい娼館にでも──
「下衆な顔をしておられます」
「まだ考えただけだ」
「考えただけで品位が落ちる顔でした」
「顔に責任を持たせるな」
「殿下の顔でございますので」
「俺の顔を王室財産みたいに扱うな。もう国ごと滅びたわ」
「なおさら、大切になさるべきです」
リューリックが、わずかに眉を寄せた。
家臣としては、主君の品位に関わる顔ばかり見せられて、心労が絶えないらしい。
だが今日は許してくれ。
何せ、勝ち戦なんだ。
今夜は祝杯だ。
明日は休みだ。
明後日は──。
ぼん、と地響きがした。
はじめ、それは雷だと思った。
春先の、まだ冷たい空気の中で、不意に響くような重低音。だが空は晴れている。
戦場のあちこちで、剣を交わしていた連中が、一斉に動きを止めた。味方も、敵も。怒鳴り声も、鉄の音も、一瞬だけ薄くなった。
全員、北を見ていた。
北の街道筋に、土埃が立っていた。
細長く、長く、長く。
そして、その埃の先頭で、見たくなかった旗が見えた。
黒地に、金の鷲。
グランデル帝国正規軍。
──マジか。
「……殿下」
「見えてる」
「五百は超えていますね」
「数えるな」
「戦場で数を見ないのは、祈祷師の仕事でございます」
「俺は今、祈祷師になりたい」
「不適性です」
「知ってるよ!」
状況を整理しよう。
こちら、当初三百。ここまでの戦闘で死傷を出して、動けるのはおそらく二百五十。
帝国側、当初の百五十。あちらはもっと削れていて、たぶん八十を切っている。
──ここまでは、こちらの圧勝予定だった。
だが、増援が来た。
五百超え。
ざっと見積もって、二百五十対五百八十。
詰みだ。
計算しよう。
こちら側の指揮官は、状況を見て撤退命令を出す。出さなければバカだ。出すまでに、五分。
撤退中に追撃を受ける確率、九割。
追撃を生き延びる確率、三割。
三割の中に俺が含まれる確率、まあ、五割。
全部かけ算したら、生存確率は十三・五パーセント。
反対に。
ここで「勇敢に」戦って負傷する確率、ほぼ百パーセント。
負傷した俺が後送される確率、九割。
野戦病院に運ばれる確率、ほぼ十割。
病院に着いた俺が生きている確率、まあ八割。
全部かけ算しても、生存確率は六十パーセントを超える。
答えは出た。
「リューリック」
「はい」
「いつものやつ、いくぞ」
「……またですか」
「俺だってやりたかない。だが、これが最も有効な生存策だ」
「殿下の生存戦略は、いつも医療従事者の負担を前提にしております」
「後で感謝する」
「先に反省を」
「生き残ったらな!」
リューリックが、目を細めた。
落胆と諦観と、ほんのわずかな安堵が入り混じった顔。主君が生き残ろうとしている。その事実への安堵だ。
たぶん。
怪我する場所を選ぼう。
太腿は不味い。動脈が近い。出血が止まらないと洒落にならない。
腹も駄目だ。腸を切ると感染症で死ぬ。
顔も嫌だ。理由は明白だ。二目と見られない男に惚れてくれる女は少ない。いや、いるかもしれないが、俺はできれば広く門戸を開きたい。
肩か、脇腹。
浅く、派手に、見栄えよく。
「勇敢な傭兵、最後の突撃」くらいの絵面で充分だ。
俺は剣を握り直した。
「負傷者を下げろッ! 前を一枚、噛み止めるッ!」
これで無茶して突撃する絵を作りつつ、他の連中が逃げる時間も多少は稼げる。評価も落ちない。むしろ上がる。俺は名誉も金もそこそこ欲しい。命はもっと欲しい。
完璧だ。
そう思った。
その答案用紙には、次の瞬間、大きく赤で零点がついた。
「行くぞ、お前ら! ここで活躍したやつが一等勲賞だぁ!」
「待て待て待て待て!」
周りの傭兵連中が、俺の声に釣られたように雄叫びを上げた。
バカどもめ。
全員で来るな。
俺は俺だけが、ほどよく斬られる予定なんだ。
俺に負けじと突っ込んだ傭兵二人が、帝国兵を一人叩き切った。次の瞬間、三方向から槍が伸びた。
串刺しだった。
断末魔が上がった。
俺の馬鹿な声に釣られた。
そう思った瞬間、胃の奥が一度だけ冷えた。
だが戦場では、冷えた胃を抱えている暇もない。冷えた胃を抱えたまま立ち止まれば、次に串刺しになるのは俺だ。
俺は走った。
一番厚い帝国兵の壁に向かって、走った。
剣を合わせる。
一合。
二合。
三合。
相手は悪くない。悪くないから、ちょうどいい。
俺は剣の振りを、わざと甘くした。
刃が入る角度を作る。
一発、肩で受ける。
鋭い痛みが、肩から胸まで走った。
「ッ──」
声にならなかった。
本物の刃物の感触。
──やべえ。
これ、思ったより深い。
「殿下!」
リューリックが走ってきた。
今日いちばん速い動きだった。相手の兵士が何かを言う前に、リューリックの剣がその手首を弾き、膝を崩し、喉元に刃を置いた。
殺していない。
殺すより速い無力化。
相変わらず腹の立つ腕だった。
──ああ、その本気は、もっと前に見せてほしかった。
そう思いながら、俺の意識は、ぐらりと傾いだ。
春先の泥が、頬を冷やした。
血の味がした。
誰かが俺の名を呼んだ気がした。
殿下、だったかもしれない。
やめろ、と言いたかった。
言えなかった。
消毒薬の匂いで、俺は生きていることを思い出した。
鼻先につんと刺さるような、酸っぱくて、清潔で、ほんの少し血の混じった匂い。
誰かが布を絞っている音。
靴がぱたぱたと走る音。
遠くで誰かが呻いている。
さらに遠くで、誰かが祈っている。
視界はまだ暗い。
だが、もう知っている。
──ここは野戦病院だ。
「……気がつきましたか」
声がした。
女の声。
低めの、落ち着いた、戦場慣れした声。けれど、最後の一音が、ほんの少しだけ優しい。
ぼんやりと目を開けた。
天井は古い梁。
たぶんリヴェン領のどこかの集落の集会所を、病院に転用したやつだ。
そして、俺の上に、誰かが屈み込んでいる。
後ろから差す光で逆光になって、顔の輪郭しか見えない。
だが、見えた範囲だけで充分だった。
──ああ。
また、惚れた。
たぶん、今度もろくな目に遭わない。
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この大陸では、戦争は天気のようなものだった。
止むことはなく、ただ強くなったり弱くなったりするだけだった。
人々はその下で畑を耕し、恋をし、子を産み、傷を縫った。
だから大陸のどこにでも、戦場と野戦病院があった。
そんな世界に、ひとり、風変わりな生き方をする男がいた。
勝てない戦場では、わざと初戦で死にかけることで生き延びてきた。
それを、彼は自分の仕事だと呼んだ。
物語は、彼が今日もまた、誰かに包帯を巻かれるところから始まる。
──帝国暦四八二年、春。
リヴェン伯国・北部国境にて。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次話から、いよいよ本編です。
元王子、現傭兵、専門は死にかけること。
そんなレオンが最初に出会うのは、戦場の看護師セラです。
予定通り死にかけて、予定外に生き残った男が、最初に何を言われるのか。
よろしければ、第1話も続けて読んでいただけると嬉しいです。




