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第百十一部 勝った後で、ようやく名前を呼び合う話 ① 橋の上で縛られなかったサロメ

 鹿鳴橋の上で、サロメ・ヴァルガは縛られなかった。


 それは、彼女が自由であるという意味ではない。


 あまりにも多くの目があったからだ。


 市警。


 イタリカ軍。


 ザクセル側の役人。


 改革派の市民。


 紙問屋。


 薬種商。


 新聞売りの親たち。


 中央市民病院の医師。


 軍医会の代表。


 そして、青いインクの印刷工たち。


 その全員の前で、サロメは立っていた。


 逃げられない。


 だが、誰か一つの組織だけが彼女を連れていくこともできない。


 サロメは、それを分かっていた。


 だからこそ、まだ微笑もうとしていた。


「これは拘束ですか」


 彼女は静かに尋ねた。


 返事をしたのは、市警ではなかった。


 カミラだった。


「事情聴取だ」


 ニーナに肩を押さえられたまま、カミラは立っていた。


「ただし、逃走、証拠隠滅、証人殺害の恐れがある。複数機関立会いのもと、身柄を保全する」


「あなたにその権限が?」


「ある」


 カミラは掠れた声で答えた。


「私はまだ、監察官だ」


 その一言に、橋の上の空気が変わった。


 監察官。


 囚人ではない。


 死亡予定者でもない。


 国境証人でもない。


 カミラ・パヴェルは、自分の名前と職務を取り戻した。


 サロメの視線が、わずかに鋭くなる。


「監察官は、国家に従うものでは?」


「従う」


 カミラは頷いた。


「だから、国家の名で国家を私物化した者を調べる」


 サロメは黙った。


 その沈黙を、ヴィクトルが紙へ記録する。


 紙が走る。


 筆が走る。


 橋の上の会話が、もう誰かの記憶だけに頼らず、文字になっていく。


「サロメ・ヴァルガ」


 レオンが言った。


 サロメはレオンを見る。


「何でしょう、亡国王子」


「その呼び方も、しばらく聞かずに済むようにしてやる」


「どういう意味ですか」


「俺の名で、お前の筋書きを進めるな」


 サロメは薄く笑う。


「名前は、使える者が使うものです」


「違う」


 レオンは言った。


「名前は、生きている者が取り返すものだ」


 サロメの笑みが、少しだけ浅くなる。


 カミラが、ニーナに支えられたまま小さく息を吐いた。


「……今のは、まあまあだな」


「まあまあか」


 レオンが振り返る。


「十分褒めている」


「少しは素直に褒めろ」


「生きていたら考える」


 その言葉を聞いた瞬間、ニーナの手が一瞬だけ止まった。


 レオンとカミラの間にあるもの。


 軽口の奥にある重さ。


 何度も死線を越えた者同士の、分かりにくい信頼。


 それが見えた。


 嬉しかった。


 カミラが生きていて、レオンが間に合って、本当に嬉しかった。


 でも、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 ニーナはその痛みを、今は見なかったことにした。


「カミラさん、座って」


「まだ立てる」


「座って」


「監察官として」


「患者として」


 カミラはニーナを見た。


 ニーナも見返した。


 数秒。


 先に目を逸らしたのは、カミラだった。


「……分かった」


 レオンが驚いた顔をする。


「カミラが素直に座った」


「何だ、その顔は」


「いや、珍しいものを見た」


「お前も座れ」


 カミラが言う。


 ニーナも同時に言った。


「レオンも座って」


 二人の声が重なった。


 レオンは黙った。


 黙って座った。


 橋の端で、ヴィクトルが筆を止めずに言う。


「良い黙り方です」


「それを書くな」


「書きません」


「今、書こうとしただろう」


「記録価値はあります」


「ない」


 橋の上に、小さな笑いが生まれた。


 それは勝利の歓声ではない。


 疲れ切った者たちが、ようやく息を吸った音だった。



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