第百十部 橋の上で、灰色の筋書きを破る話 ⑤ 逃げようとしたサロメ
サロメは逃げようとしていた。
橋の崩落で混乱を作り、その隙にザクセル側へ抜ける。
だが、そこには白翼がいた。
イタリカ側へ戻ろうとすれば、市警と紙問屋たちがいる。
橋の中央には、レオン。
その背後に、ヴィクトル。
そして、カミラ。
サロメは足を止めた。
「見事です」
彼女は言った。
「まだ笑うのか」
レオンが立ち上がる。
「笑います。ここで怒鳴れば、負けを認めるようなものですから」
「もう負けている」
「何に?」
カミラが、ニーナに支えられながら立ち上がった。
「人目にだ」
サロメの視線がカミラへ向く。
カミラは息を整え、橋の上の群衆へ向き直った。
「私は、カミラ・パヴェル。イタリカ共和国監察官として、今ここで証言する」
ヴィクトルが筆を構える。
群衆が静まる。
カミラは血の滲む肩を押さえながら、はっきり言った。
「私を拘束し、灰倉院で死亡処理を試み、鹿鳴橋で狙撃と橋梁破壊を行った一連の工作には、灰旗第九位サロメ・ヴァルガが関与している」
サロメの顔がわずかに歪む。
「証拠は」
「ある」
カミラはレオンを見た。
「紙を」
レオンは命令書の写しを掲げる。
ヴィクトルが灰旗の紙片を掲げる。
白翼が狙撃手の命令紙を掲げる。
ニーナが毒入りと疑われた水杯を掲げる。
「これはまだ、完全な裁判ではない」
カミラは言った。
「だが、十分な嫌疑だ。私の名で、サロメ・ヴァルガの拘束と、灰旗関係文書の押収を要求する」
市警は動けなかった。
国家保安局の監視も動けなかった。
軍の兵も迷っていた。
この場でサロメを守れば、灰旗側だと見られる。
この場でサロメを捕らえれば、国家保安局と軍の内部に波紋が走る。
誰も動けない。
その停滞を破ったのは、ザクセル側の改革派の男だった。
「橋を壊そうとした者を捕らえろ!」
次に、紙問屋の親方。
「子どもの名簿を貼った連中の親玉だ!」
薬種商の女主人。
「毒を使った者を逃がすな!」
市民の声が重なる。
兵たちが、ようやく動いた。
サロメの周囲を囲む。
サロメは抵抗しなかった。
ただ、レオンを見た。
「今日は、あなたの勝ちということにしておきましょう」
「今日は、ではない」
レオンは言った。
「ここからだ」
サロメは微笑む。
「あなたは、私を捕らえれば終わると思っていますか」
「思っていない」
「なら、なぜ」
「終わらせるためじゃない」
レオンは一歩近づいた。
「始めるためだ」
サロメの目が、わずかに動いた。
「何を」
「お前が灰色にした名前を、全部取り返す」
サロメは答えなかった。
初めて、すぐには答えなかった。
その沈黙が、今日一番大きな勝利だった。
──第百十部 了




