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第百十部 橋の上で、灰色の筋書きを破る話 ④ それでも崩れなかったサロメ

 だが、サロメはそれでも崩れなかった。


 彼女は一歩下がり、手を上げる。


 橋の下で、縄が切られた。


 鹿鳴橋の中央板が軋む。


 古い板の下へ、細工がしてあった。


 証言台ごと、中央が落ちる。


 狙撃が失敗した時の次の手。


 橋ごと落として、カミラを谷へ落とす。


 そして混乱の中で、誰の仕業か分からなくする。


「カミラ!」


 レオンが走った。


 今度は迷わなかった。


 橋の中央へ。


 国境線へ。


 サロメの舞台へ。


 ただし、剣は抜かない。


 右腕も使わない。


 左手だけを伸ばす。


 カミラの足元が崩れる。


 彼女の身体が傾く。


 その瞬間、ニーナがカミラの腰へ飛びついた。


「重っ!」


「失礼だな!」


 カミラが叫ぶ。


「生きてるなら文句言って!」


「言っている!」


 二人まとめて崩れかける。


 レオンがニーナの腕を掴む。


 右肩が悲鳴を上げる。


 使わないと約束した右腕が、反射で伸びかける。


 だが、ここで使えば肩が完全に壊れる。


 ニーナも、カミラも、支えきれない。


 その時、橋の下から白い縄が飛んだ。


 白翼の者たちが、谷底から支え縄を投げたのだ。


 リザが橋の端で叫ぶ。


「足元!」


 レオンは縄を蹴って手繰り寄せ、左腕に巻いた。


 ヴィクトルの印刷工たちも走り、縄を掴む。


 紙問屋の親方も。


 薬種商の女主人も。


 市警も。


 ザクセル側の市民も。


 イタリカの兵の一部も。


 敵味方の線が、一瞬だけ消えた。


 橋の中央から落ちかけた二人の女を、全員で引く。


 ニーナが叫ぶ。


「カミラさん、手!」


「左は使えない!」


「じゃあ右!」


「右は、お前が掴んでいる!」


「えっ、これ右!?」


「どっちでもいい、離すな!」


 カミラが珍しく怒鳴った。


 その声に、レオンは笑いそうになった。


 笑っている場合ではない。


 全身で縄を引く。


 肩が裂けるように痛む。


 それでも引く。


 ニーナの手。


 カミラの腕。


 白い縄。


 橋の板。


 人々の怒号。


 すべてが一つになって、二人を橋の上へ引き戻した。


 ニーナがまず転がり上がる。


 次にカミラ。


 彼女は橋の上に倒れ込み、激しく咳き込んだ。


 レオンは膝をつき、彼女の顔を覗き込む。


「カミラ」


「……近い」


 カミラが掠れ声で言った。


「生きてるな」


「見れば分かるだろう」


「分からなかった」


 カミラは、ほんの一瞬だけ、目を逸らした。


「……心配を掛けた」


 その声は小さかった。


 ニーナが横で息を切らしながら言う。


「今の、あとでちゃんともう一回言ってください」


「なぜ」


「レオンが聞き逃すから」


「聞いた」


 レオンが言う。


「聞いたが、もう一回聞きたい」


「馬鹿か」


 カミラの頬が、ほんの少し赤くなった。


 熱のせいか。


 痛みのせいか。


 それとも、違うのか。


 ニーナはそれを見て、一瞬だけ目を伏せた。


 だが、すぐにカミラの傷へ視線を移す。


「肩、見せて」


「大丈夫だ」


「駄目。患者は黙って」


「私は監察官だ」


「今は患者」


「……レオンの周りは、こういう女ばかりか」


「その筆頭があなたです」


 カミラは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


「言うな」


 その笑いは弱かった。


 でも、確かに笑った。



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