第百十部 橋の上で、灰色の筋書きを破る話 ③ 橋の中央に立ったサロメ
サロメ・ヴァルガは、橋の中央に立った。
灰色の外套。
白い手袋。
穏やかな顔。
群衆の中で彼女の名を知る者が増えている。
だからこそ、彼女は逃げなかった。
逃げれば名を認めることになる。
彼女は、あえて人前に姿を現した。
「本日は、虚偽と混乱を正すため、監察官カミラ・パヴェル本人に証言していただきます」
声が橋に響く。
「灰旗第九位サロメ・ヴァルガという名が市中に流れておりますが、それは反政府印刷網による捏造です」
ざわめき。
ヴィクトルがすぐに紙へ記録する。
彼女が、自分から名を口にした。
これは大きい。
サロメは続ける。
「亡国王子レオン・ヴァン・リュカリオンは、ザクセル改革派および青いインクと結び、監察官の移送を妨害しました。監察官本人が、それを証言します」
カミラが前へ出される。
彼女の前に、証言台が置かれた。
台の上には水杯。
ニーナがそれを見た瞬間、顔色を変えた。
「水」
「毒か」
レオンが囁く。
「分からない。でも、カミラさんは喉を痛めてる。あそこで飲ませる気なら怪しい」
「止めるか」
「まだ」
今度はニーナが言った。
「飲む前に」
カミラは水杯を見た。
手を伸ばさない。
サロメが微笑む。
「喉が渇いているでしょう」
「証言に水は不要だ」
「無理をなさらず」
「お前の差し出すものを飲むほど、喉は渇いていない」
群衆の一部がざわつく。
サロメの笑みが薄くなる。
「では、証言を」
カミラは証言台に手を置いた。
左手ではない。
右手だ。
そして、はっきりと言った。
「私は、カミラ・パヴェル。イタリカ共和国監察官である」
声は掠れていた。
だが、橋の上に届いた。
「私は、自分の意思でここに来ていない」
ざわめきが大きくなる。
サロメが一歩近づく。
「監察官、事実と異なる発言は」
「黙れ」
カミラは振り向かずに言った。
その一言で、橋が静まった。
「私は、灰倉院において、イーゴル・セヴェリン、オルヴァン・ケルドと共に拘束され、死亡処理予定の書類を見た。私は、医師アンナ・リードの署名が偽造された報告書を見た。私は、灰旗第九位の命令文を見た」
サロメの指が動く。
見張り台の弩兵がわずかに構えを変えた。
レオンはそれを見た。
同時に、ヴィクトルも見た。
屋根の上にいる白翼の斥候も。
ニーナは水杯から目を離さない。
カミラは続ける。
「そして私は、ここで亡国王子側に撃たれる筋書きまで、おおよそ察している」
群衆が凍った。
サロメの目が初めて細くなる。
「それは、想像ですか」
「監察官の推測だ。外れたら訂正する」
カミラは少しだけ笑った。
「撃たれなければな」
その瞬間、弦の音が鳴った。
見張り台からではない。
ザクセル側の崩れた石塔。
誰もが見張り台を見ていた。
だから、石塔が本命だった。
矢はカミラの胸へ向かって飛んだ。
レオンは動けない距離にいた。
間に合わない。
だが、カミラは動かなかった。
動いたのは、ニーナだった。
彼女は橋の手前から、証言台へ向かって走っていた。
いつから走っていたのか、レオンにも分からなかった。
水杯を見ていたはずの彼女は、弦の音の前に、もう動いていた。
「伏せて!」
ニーナが叫ぶ。
カミラは、その声に反応した。
膝を折る。
矢は胸ではなく、肩の布を裂いて通り過ぎた。
血は出た。
だが、致命傷ではない。
次の瞬間、石塔から二射目が来る。
白翼の斥候が石塔へ飛び込む。
同時に、リザが橋の下から鐘紐を引いた。
古い警鐘が鳴る。
ごん。
ごん。
群衆が石塔を見る。
狙撃手が見えた。
灰色の袖。
全員が見た。
「灰旗だ!」
誰かが叫んだ。
紙問屋の親方が怒鳴る。
「まただ!」
市警が走る。
ザクセル側の改革派市民も走る。
狙撃手は逃げようとする。
だが、石塔の出口には、サレーネの白翼がいた。
投げ縄が足へ絡み、狙撃手が倒れる。
レオンは、その一瞬を待っていた。
橋の上へ踏み出す。
だが、中央線は越えない。
イタリカ側の半分まで。
そこから、声を張った。
「見たな!」
群衆がこちらを向く。
「今、カミラ・パヴェルを撃ったのは、俺ではない。青いインクではない。ザクセル改革派でもない」
ヴィクトルがすぐに紙へ記録する。
レオンは続けた。
「灰旗だ!」
狙撃手が石塔から引きずり出される。
袖に灰旗。
さらに懐から、灰色の小封蝋。
そして、短い命令紙。
白翼の斥候がそれを高く掲げた。
レオンの声が、橋に響く。
「サロメ・ヴァルガ。今度は人前で外したな」
サロメの顔から、完全に笑みが消えた。




