第百十部 橋の上で、灰色の筋書きを破る話 ① ヴィクトルが渡した三枚の紙
鹿鳴橋へ向かう前、ヴィクトルは三枚の紙をレオンへ渡した。
一枚目は、灰倉院命令書の写し。
二枚目は、ベイル・ランツの証言書。
三枚目は、まだ白紙だった。
「白紙?」
レオンが尋ねる。
「今日、橋の上で起きたことを書きます」
「起きる前から用意するのか」
「起きてから紙を探していては遅い」
「印刷屋は怖いな」
「剣士ほどではありません」
ヴィクトルは白紙の下へ、すでに見出しだけを置いていた。
――鹿鳴橋公開証言記録。
その下は空欄。
誰が何を言ったか。
誰が何をしたか。
誰が誰を殺そうとしたか。
今日の戦いは、そこを埋める戦いだった。
ニーナは薬箱を背負い、レオンの包帯をもう一度確認した。
「右腕は?」
「使わない」
「走る時は?」
「考えてから走る」
「剣は?」
「抜く前に見る」
「何を見るの」
「お前の顔」
ニーナの手が止まった。
「……そういうことを急に言わないで」
「確認だろう」
「確認だけど、言い方」
「悪かった」
「謝るのも早い」
「どうしろと」
「死なないで」
レオンは少し黙った。
そして頷いた。
「死なない」
ニーナは包帯を結び直す。
「それでいい」
リザは、舞台の梁に登った件をまだ反省しているような顔で、ヴィクトルの後ろに立っていた。
「私は?」
彼女が小さく尋ねる。
レオンが即答する。
「来るな」
「行きます」
「今、聞いた意味は」
「一応です」
ニーナがため息をつく。
「レオンに似なくていいって言ったよね」
「でも、私の名前も使われました」
リザは拳を握った。
「子どもを使えば大人が動くと、あの人たちは思ってる。だから、子どもも見ているって知らせたい」
ヴィクトルが静かに言った。
「見ているだけです。動かない。走らない。登らない」
「……はい」
「返事が遅い」
ニーナが言う。
「はい」
少し早くなった。
誰も笑わなかった。
今日の橋では、笑う余裕があるか分からなかったからだ。




