第百九部 口を封じに来た者へ、名前を叫ばせる話 ④ サロメの目を見ようとしない国境宿営地
国境宿営地では、誰もサロメの目を見ようとしなかった。
兵が廊下で噂をしている。
馬丁が名を囁く。
書記が紙を隠し持つ。
医療係が、アンナ・リードの偽署名について話している。
サロメ・ヴァルガ。
灰旗第九位。
その名は、宿営地にも届いていた。
サロメは静かに机の前に座っている。
怒鳴らない。
物も投げない。
ただ、指先で机を叩いていた。
一度。
二度。
三度。
カミラは椅子に縛られたまま、それを見ていた。
「苛立つ時の癖か」
「あなたほど分かりやすくはありません」
「私は分かりやすいか?」
「ええ」
サロメは顔を上げた。
「勝ったつもりですか」
「いいや」
カミラは答えた。
「私はまだ縛られている。お前はまだ自由だ。だから勝ってはいない」
「では、なぜ笑うのです」
「お前の名が出た」
「名など、変えればいい」
「変えるたびに、前の名が追ってくる」
カミラは少し息を整えた。
熱で視界が揺れる。
それでも、ここは笑っておくべき場面だった。
「お前は、他人の名前を奪いすぎた」
サロメの目が冷たくなる。
「だから、今度は自分の名に追われる」
沈黙。
その沈黙を破ったのは、外から駆け込んできた書記だった。
「申し上げます」
「何です」
「軍医会より、カミラ・パヴェル監察官の移送停止要請が出ました。医療記録の偽造疑いがあるため、再診を求めると」
サロメは返事をしない。
「さらに、軍需局からも照会が。イーゴル・セヴェリンの死亡処理予定について、本人死亡確認の提出を」
カミラは、今度こそ声を出して笑った。
すぐ咳き込み、痛みで顔を歪めたが、それでも笑った。
「しぶといだろう」
サロメがゆっくり振り向く。
「誰が」
「あの馬鹿も、周りの連中も」
カミラの声は掠れていた。
だが、誇らしげだった。
「一人を殺しても、もう止まらないぞ」
サロメは立ち上がった。
初めて、椅子が大きく音を立てた。
「では」
彼女は静かに言った。
「一人ではなく、舞台ごと燃やしましょう」
カミラの笑みが消える。
「何をする気だ」
「公開証言を前倒しします」
「どこで」
「国境宿営地ではありません」
サロメは窓の外を見る。
夕闇の向こうに、ザクセルとの古い境界線がある。
「鹿鳴橋です」
カミラの顔が変わった。
「また橋を使うのか」
「ええ」
「レオンは渡らなかった」
「だから、今度は渡らせます」
サロメは振り返った。
「明日、あなたを橋の中央へ立たせます。ザクセル襲撃と灰旗疑惑について、証言していただく」
「私が嘘を言うと思うか」
「言わなくても構いません」
「何?」
「あなたが口を開く前に、狙撃されればいい」
カミラの呼吸が止まった。
「誰に」
「亡国王子側の者に、そう見えれば十分です」
「狂っている」
「いいえ」
サロメは、また穏やかに微笑んだ。
「舞台が大きくなっただけです」
──第百九部 了




