第百九部 口を封じに来た者へ、名前を叫ばせる話 ② その日の夕方に行われた移送
移送は、翌朝ではなく、その日の夕方に行われた。
ただし、街には「明朝」と流してある。
普通なら、知らせた時刻の裏をかく。
だが、サロメが相手なら、それだけでは足りない。
ヴィクトルは明朝の偽情報を流した上で、夕方の移送もわざと目立つ道を選んだ。
人通りの多い石畳。
紙問屋の前。
薬種商の角。
昨日、子どもたちが名簿を貼られた壁の前。
護送する市警は四人。
青いインクから印刷工二人。
紙問屋の親方。
薬種商の女主人。
ニーナ。
レオン。
そして、屋根の上にはリザがいた。
「また登ってる」
ニーナが低く言う。
「止めたんだが」
レオンが答える。
「あなたの止め方は弱い」
「強く止めれば泣きそうだった」
「だから弱い」
「どうしろと」
「後で叱る」
「俺を?」
「両方」
護送車は、あえて遅く進んだ。
捕らえた灰旗の男は、手足を縛られ、口には布を噛まされている。
だが、布は薄い。
毒を隠せない程度に口を塞ぎ、悲鳴は出せる。
ヴィクトルの指示だった。
「悲鳴?」
レオンが聞いた時、ヴィクトルは表情を変えずに答えた。
「殺されかけた時、声が必要です」
「悪趣味だな」
「相手が悪趣味なので」
護送車が紙問屋の前を通る。
人が増えている。
見物人。
子どもを連れた母親。
職人。
市警。
国家保安局の監視。
そして、灰色を隠した者。
レオンは見えていた。
角のパン屋の前に一人。
水売りの樽の横に一人。
屋根の上に一人。
まだ動かない。
彼らもこちらを見ている。
誰が護衛か。
誰が証人か。
どこで殺せば、一番自然に見えるか。
サロメの手の者は、そう考えている。
護送車が薬種商の角へ入った時、最初の仕掛けが来た。
馬の足元へ、丸い陶器が転がった。
割れる。
白い煙。
「目潰し!」
ニーナが叫ぶ。
市警が怯む。
見物人が悲鳴を上げる。
その悲鳴に紛れて、水売りの樽の横にいた男が護送車へ近づく。
手には短い吹き矢。
狙いは灰旗の男の首。
「来た」
レオンは走らなかった。
走れば、別の方向が空く。
代わりに、薬種商の女主人が動いた。
彼女は自分の店先に置いてあった酢の壺を、男の顔へ叩きつけた。
壺が割れ、強烈な臭いが広がる。
吹き矢の男が咳き込む。
ニーナがその手首へ飛びつき、吹き筒を蹴り落とした。
「毒?」
「たぶん!」
「触るな!」
「もう触ってない!」
屋根の上からリザが縄を落とす。
吹き矢の男の足へ絡む。
印刷工が引き、男が転ぶ。
人々がどよめく。
その瞬間、二つ目の仕掛け。
パン屋の前の男が、護送車へ火の付いた布を投げた。
紙へ燃え移らせるためではない。
馬を暴れさせるためだ。
だが、紙問屋の親方が待っていた。
彼は分厚い濡れ紙の束を盾のように構え、燃える布を受け止めた。
「うちの紙を燃やすな!」
怒号が響く。
見物人の何人かが笑った。
だが、次の瞬間、三つ目。
屋根の上の男が弩を構えた。
狙いは灰旗の男ではない。
リザだった。
レオンの血が冷える。
弩の弦が鳴る。
レオンは護送車から離れて走った。
間に合わない。
そう思った瞬間、別の屋根から白い布が翻った。
サレーネの斥候。
投げ刃が弩兵の肩へ刺さる。
矢は逸れ、劇場の古い看板へ突き刺さった。
リザが屋根の上で腰を抜かす。
「降りろ!」
レオンが叫ぶ。
「はい!」
今度は素直だった。
だが、灰旗はまだ終わらない。
護送車の中で、捕らえられた男が暴れた。
首に巻かれていた縄が、外から引かれている。
誰かが、群衆の中から細い釣り糸のようなものを使って、彼の首を絞めていた。
レオンは振り返る。
ニーナが先に気付いた。
「首!」
護送車へ飛び込む。
灰旗の男の顔が紫になる。
ニーナは首の糸へ指を入れた。
切れない。
細い金属線。
指が裂け、血が滲む。
「ニーナ!」
レオンが車内へ飛び込む。
剣を抜けば男の喉を切る危険がある。
短剣。
左手で金属線を引き、隙間を作る。
ニーナが男の顎を支える。
「息して!」
男は目を見開いている。
助けを求めている。
さっきまで黙っていた男が。
灰旗の男が。
死にたくない目をしている。
レオンは金属線を切った。
男が激しく咳き込む。
同時に、群衆の中から線を引いていた者が逃げようとした。
紙問屋の親方が叫ぶ。
「そいつだ!」
市警が飛びかかる。
薬種商の女主人が足元へ薬袋を投げる。
滑った男が倒れる。
印刷工二人が押さえつけた。
腕を捲る。
灰色の刺繍。
群衆が爆発したように叫ぶ。
「また灰旗だ!」
「口封じに来たぞ!」
「市民じゃない!」
「子どもの名簿を貼った連中だ!」
護送車の中で、灰旗の男はまだ咳き込んでいた。
ニーナはその背を叩く。
「吐いて。息して」
男は涙と唾で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
さっきまでの沈黙は消えている。
恐怖だけが残っている。
レオンは男の前にしゃがんだ。
「名を言え」
男は震えた。
レオンは続ける。
「今言えば、生きて名を残せる。黙れば、灰旗に殺されて終わりだ」
男の目が、群衆を見る。
灰旗の刺繍を押さえられた二人。
毒の吹き矢。
火。
金属線。
全部が人前にある。
もう、なかったことにはできない。
「名を言え」
レオンは三度目を言った。
男の唇が震えた。
「……ベイル」
「姓は」
「ベイル・ランツ」
ヴィクトルがすぐに筆を取る。
紙へ書く。
名前が、灰から人間へ戻る。
「誰の命令だ」
ベイルは首を振る。
「言えば殺される」
「言わなくても殺されかけた」
ニーナが低く言った。
「今、あなたを殺そうとしたのは誰?」
ベイルは泣きそうな顔で、押さえられている灰旗の男たちを見た。
「灰旗」
「誰の灰旗だ」
レオンが問う。
ベイルは息を詰まらせた。
口を開く。
閉じる。
開く。
ニーナが彼の肩を掴んだ。
「息して。言葉は息の後」
ベイルは震えながら息を吸った。
そして、群衆の前で叫ぶように言った。
「第九位だ!」
ざわめきが走る。
レオンは逃がさない。
「名は」
ベイルは目を閉じた。
「サロメ・ヴァルガ!」
その名が、通りに落ちた。
灰色ではない。
はっきりとした音になって。
群衆が静まり返る。
次の瞬間、誰かが繰り返した。
「サロメ・ヴァルガ」
別の誰かが言う。
「灰旗第九位、サロメ・ヴァルガ」
紙問屋の親方が怒鳴る。
「書け! 今のを書け!」
ヴィクトルはもう書いていた。
印刷工が叫ぶ。
「速報だ!」
新聞売りの子どもたちが走る。
ニーナはベイルの首を確認しながら、ぽつりと言った。
「名前、出たね」
レオンは通りの先を見た。
サロメはここにいない。
だが、彼女の名は今、ここにいる。
人々の口に乗っている。
もう、灰色の影ではいられない。
「一発どころじゃない」
レオンが低く言った。
「かなり入った」
ニーナは小さく笑った。
「倍返し?」
「ああ」
レオンは灰旗の刺繍を押さえられている男たちを見た。
「まだ足りないがな」




