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第百九部 口を封じに来た者へ、名前を叫ばせる話 ① 名を名乗らなかった灰旗の男

 灰旗の男は、名を名乗らなかった。


 東区人形劇場で捕らえられ、毒を噛み潰すことにも失敗し、袖の刺繍まで民衆の前に晒されたというのに、男はずっと黙っていた。


 市警の臨時詰所として使われている古い酒場の奥で、男は椅子に縛られている。


 口には布。


 舌の下に毒を隠せないよう、ニーナが何度も確認した。


「口の中を見るの、これで五回目」


 男が睨む。


 ニーナは睨み返した。


「嫌なら毒を持ち歩かないで」


 レオンは壁際に立っていた。


 剣は抜いていない。


 抜けば、この男は黙ったまま死ぬかもしれない。


 いま必要なのは、殺すことではない。


 喋らせることでも、まだない。


 生かしたまま、サロメの手がこの男へ伸びる瞬間を掴むことだった。


 ヴィクトルは机の上へ、紙を並べている。


 灰倉院命令書。


 北方伝令の偽報告書。


 灰旗第九位の紙片。


 劇場で押収した短剣。


 灰色の袖。


 毒の黒い粒。


 それらを一つずつ、証人の前に置いた。


 証人は市警二人。


 紙問屋の親方。


 薬種商の女主人。


 新聞売りの子どもの父親。


 そして、中央市民病院から駆けつけた若い医師。


 青いインクだけで抱え込まない。


 それがヴィクトルの判断だった。


「こいつを普通の牢へ入れれば、朝までに死にます」


 ヴィクトルが言う。


「殺される?」


 市警の一人が尋ねる。


「あるいは、自分で死んだことにされる」


「そんなことが」


 薬種商の女主人が低く言った。


「薬を使えば、いくらでも」


 場が静まる。


 ニーナが机の上の黒い粒を見た。


「これは即効性。口の中で潰せば、助けるのは難しい」


「助けたのか」


 紙問屋の親方が問う。


「助けたというより、死なせなかった」


「同じでは?」


「違う」


 ニーナは短く答えた。


「死なせたら、この人はずっと灰色のままだから」


 灰旗の男の目が、わずかに動いた。


 レオンはそれを見た。


 この男は恐れている。


 死ぬことをではない。


 名前を失うことを。


 灰旗として使われ、灰旗として消されることを。


「名を言え」


 レオンが言った。


 男は布の奥で笑った。


 ヴィクトルが顎を少し上げる。


「外します。ただし、舌を噛めないように」


 ニーナが布を外し、男の顎を押さえる。


 男は咳き込み、唾を吐こうとした。


 ガレスなら殴っていたかもしれない。


 だが、今ここにガレスはいない。


 レオンは動かなかった。


「名を言え」


 もう一度。


 男は掠れた声で答えた。


「市民だ」


「市民は灰旗の刺繍を袖へ縫わない」


「流行だ」


「毒も?」


「護身用だ」


「子どもの名簿は?」


「知らない」


「劇場で、こちらが出す前の紙の内容を知っていた」


「勘だ」


「ずいぶんよく当たる」


 男は笑った。


「亡国王子が紙で戦うとはな。剣を持った方が似合うぞ」


 レオンは一歩近づいた。


 ニーナの視線がすぐに飛ぶ。


 行きすぎないで。


 言葉にはしない。


 でも、分かる。


 レオンは足を止めた。


「俺もそう思う」


 男が少しだけ意外そうな顔をした。


「だから、今日は剣を抜かない」


 ヴィクトルが机の上の紙を一枚取る。


「あなたを尋問しても、おそらく喋らないでしょう」


「分かっているなら無駄だ」


「ええ。ですから、あなたをここに置いておきます」


 男の眉が動く。


「何?」


「あなたをここに置いて、外へこう流します。灰旗の男は、明朝、市民立会いのもとで東区広場へ移送される。そこで押収物を公開する、と」


 男の顔色が少し変わった。


 ほんの少し。


 だが、確かに変わった。


「怖いですか」


 ヴィクトルが静かに問う。


「何が」


「あなたが喋ることではありません。あなたが生きたまま人前に出ることが」


 男は黙った。


 ニーナが小声で言う。


「来るね」


 レオンは頷いた。


「来る」


 ヴィクトルは紙を畳んだ。


「灰旗は、あなたを助けには来ない」


 男の喉が動く。


「口を封じに来る」



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