第百八部 灰色の旗を、舞台の上へ引きずり出す話 ④ 一瞬静まり返った客席
客席が一瞬、静まり返った。
亡国王子。
賞金首。
偽報道の中心。
女のために国を乱す男。
そういう名で貼られた男が、今、舞台の上に立っている。
レオンは名乗らなかった。
代わりに、紙を掲げた。
「この紙を見た者がいるはずだ」
客席の何人かが息を呑む。
それは、灰倉院命令書の写しだった。
「この紙には、監察官カミラ・パヴェルを東部軍政庁へ移送するとある。だが同じ日、別の報告書には、彼女が自ら移送を希望したと書かれた」
ヴィクトルが舞台袖から二枚目を掲げる。
「さらに、その報告書には、医師アンナ・リードの署名がある」
客席がざわめく。
レオンは三枚目を出した。
「だが、アンナ・リード本人は署名していない。中央市民病院も照会を出した」
市警の一人が身じろぎする。
国家保安局の男が顔をしかめる。
レオンは続けた。
「そして、これだ」
灰色の紙片。
――第九位の命により、監察官を国境証人として再配置。
「第九位とは誰だ」
客席の誰かが叫んだ。
「灰旗とは何だ!」
「監察官を動かしたのは、軍か、国家保安局か!」
「署名を偽造したのは誰だ!」
声が広がる。
レオンは、その声を待った。
問いが出るまで待った。
こちらが答えを押しつけるのではなく、人々が自分で疑うまで。
ヴィクトルの言った通りだった。
疑いは、一度生まれると、紙より速く走る。
その時、客席の中央で男が立った。
灰色の袖を隠した男。
「茶番だ!」
彼は叫んだ。
「亡国王子の偽造だ! その男はザクセル革命派を逃がした!」
レオンは男を見た。
「お前は誰だ」
「市民だ!」
「市民は、なぜ俺が出す前の紙の内容を知っている」
男の顔が強張る。
客席が静まる。
男は口を閉じるべきだった。
だが、怒りと焦りで、もう止まれなかった。
「そんなもの、街に貼られている!」
「これはまだ貼っていない」
ヴィクトルが静かに言った。
男の視線が揺れる。
次の瞬間、男は懐へ手を入れた。
短剣か。
毒か。
舞台下にいた印刷工たちが動こうとする。
だが、それより早く、客席上の古い人形吊り梁から縄が落ちた。
男の手首へ絡む。
引いたのはリザだった。
小屋番の娘は、舞台裏から梁へ上がっていた。
「今!」
ニーナが叫ぶ。
レオンは舞台から飛び降りた。
男が短剣を抜く。
レオンは左手で刃を弾き、男の肘を折らずに極める。
殺さない。
折らない。
人前で、逃がさない。
男を床へ押さえつけた瞬間、袖から灰色の刺繍が露出した。
灰旗。
客席が息を呑む。
ヴィクトルがすぐに男の袖を掴み、高く掲げた。
「これが、市民の袖ですか」
誰かが叫んだ。
「灰旗だ!」
別の声。
「第九位の手先だ!」
男は暴れる。
口を動かす。
舌の下に毒。
ニーナが飛び込む。
「口を開けて!」
男の顎を押さえ、布を突っ込む。
レオンも手を貸す。
黒い粒が床へ転がった。
「毒まで持ってる市民がいるか!」
紙問屋の親父が怒鳴った。
客席の空気が変わった。
恐怖ではない。
怒りだ。
子どもの名前を晒され、紙を燃やされ、街を焼かれた者たちの怒り。
それが、初めて灰色の袖へ向いた。
ヴィクトルが舞台上から声を張った。
「この男を殺してはいけません! 生きて証言させます!」
客席の何人かが前へ出る。
市警も動く。
だが、今度はレオンたちを捕らえるためではない。
灰色の男を押さえるためだった。
男はなおも暴れる。
その時、ミハイルが椅子から立ち上がった。
喉を押さえながら、舞台の上で一言だけ叫んだ。
「俺の活字を盗んだのは、そいつらだ!」
声は掠れていた。
だが、劇場には届いた。
一言。
それで十分だった。
人々の視線が、完全に灰旗へ向く。
レオンは男の腕を押さえたまま、低く言った。
「サロメへ伝えろ」
男は睨む。
「伝える口が残ればな」
「残す」
レオンは男の耳元へ近づけた。
「子どもの名前を使った分は、これで終わりじゃない」
男の顔から血の気が引いた。




