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第百八部 灰色の旗を、舞台の上へ引きずり出す話 ② 張り詰めた羊毛倉庫の地下

 羊毛倉庫の地下では、空気が張り詰めていた。


 ヴィクトルの連絡員が駆け込んできたのは、夜明け前だった。


「西の壁に新しい張り紙!」


 彼は息を切らせ、紙を差し出した。


 ヴィクトルが受け取る。


 読み終える前に、顔色が変わった。


「何だ」


 レオンが問う。


「青いインク関係者の名簿です」


 場が凍った。


 ミハイルが寝台の上で身体を起こしかける。


 ニーナが即座に押さえる。


「動かない」


「名前は」


 ミハイルの声が掠れる。


「俺の弟子たちは?」


 ヴィクトルは紙を握ったまま答えない。


 それが答えだった。


 印刷工の一人が紙を奪うように見た。


「……新聞売りの子まで載ってる」


「住所は?」


「半分は間違いです。でも、半分は近い」


 ヴィクトルの声は低かった。


「サロメは、こちらの紙を剥がすのではなく、こちらの紙を配る手を狙い始めた」


「子どもは」


 レオンが尋ねる。


「もう隠している」


「全部か」


「全員は無理です」


 その瞬間、レオンの表情が変わった。


 カミラの時とは違う。


 橋の時とも違う。


 静かに、何かが切れた顔だった。


「レオン」


 ニーナが呼ぶ。


「走らないで」


「走る」


「どこへ」


「名簿に載った子を集める」


「罠だよ」


「罠でも、子どもは本物だ」


 ニーナは言い返せなかった。


 その通りだったからだ。


 だが、ガレスはいない。


 アンナもいない。


 ここにいるのは、怪我人、印刷工、疲れ切った逃亡者ばかり。


 ヴィクトルが机を叩いた。


「違います」


 全員が彼を見る。


「走る場所を、こちらで決めます」


「どういう意味だ」


「名簿を出された時点で、こちらは逃げるか守るかを選ばされます。なら、守る場所を一つに絞る」


「どこへ」


 ヴィクトルは倉庫の奥に置かれた古い看板を指した。


 そこには、色の剥げた文字が残っている。


 ――東区人形劇場。


 昔、移動劇団が使っていた小劇場だ。


 今は廃墟。


 ただし、青いインクが非常時の集合場所として使っていた場所でもある。


「サロメはそこを知っているのか」


「知っています」


「では駄目だろう」


「知っているから使います」


 ヴィクトルの目が、久しぶりに印刷屋ではなく戦術家のものになった。


「名簿に載った子どもたちへ、劇場へ逃げろと流す。敵も来る。兵も来る。灰旗も来る」


「戦場にする気か」


「いいえ」


 ヴィクトルは、机の上に三枚の紙を置いた。


 一枚目は、サロメ側が貼った名簿。


 二枚目は、灰旗第九位の紙片。


 三枚目は、アンナの署名偽造照会状の写し。


「劇場で、こちらも紙を出します」


「誰に」


「民衆に」


 ニーナが息を呑む。


「公開するの?」


「はい」


「危険すぎる」


「隠れて刷れば潰される。なら、潰される前に舞台へ上げる」


 ミハイルが低く笑った。


「印刷屋が最後に頼るのが劇場とはな」


「似たようなものです」


 ヴィクトルは答えた。


「どちらも、人に見せて信じさせる仕事です」


 レオンは紙を見つめた。


「サロメを舞台へ引きずり出す」


「ええ」


「来るか」


「来ません」


「なら」


「だから、彼女の手を引きずり出す」


 ヴィクトルは名簿を指で叩いた。


「子どもの名を晒した者を、こちらの前で捕まえる。生きたまま」


 レオンの目が細くなる。


「灰旗の実行役」


「そうです」


「そいつに喋らせる」


「喋らなくてもいい。袖、封蝋、命令書、偽名簿、全部を人前で並べる」


「民衆の前で」


「ええ」


 レオンはゆっくり頷いた。


「やろう」


 ニーナが彼を見る。


「剣で突っ込むんじゃないよ」


「分かっている」


「本当に?」


「今日は舞台だろう」


「舞台で剣を抜いたら?」


「芝居になる」


「ならない」


「冗談だ」


「顔が本気」


 レオンは、ほんの少しだけ笑った。


 その笑みには、いつもの自嘲がなかった。


 怒っている。


 だが、怒りに呑まれていない。


「やられた分だけ、返す」


 彼は言った。


「いや」


 ヴィクトルが静かに訂正する。


「倍にして返しましょう」



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