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第百七部 灰色の旗へ、青いインクを叩きつける話 ④ 三刻遅れで国境宿営地へ入った馬車と、夜

 その日の夕方、サロメの馬車は予定より三刻遅れて国境宿営地へ入った。


 カミラは馬車から降ろされる時、足元がふらついた。


 兵が支える。


 彼女は振り払わない。


 振り払う力が残っていなかった。


 それでも、宿営地の入口に貼られた紙は見えた。


 ――監察官カミラ・パヴェルを誰が動かしたのか。


 誰かが慌てて剥がした跡。


 その下に、同じ紙の破れた端。


 さらにその下に、子どもの字で書かれた落書き。


 ――灰旗ってだれ。


 カミラは声を出さずに笑った。


 サロメが隣で立ち止まる。


「そんなに面白いですか」


「面白いな」


「あなたの立場は何も変わっていません」


「変わった」


「どこが」


「お前の名前が、私の横に並んだ」


 サロメは黙った。


「今までは、私とレオンの話だった。監察官と亡国王子の話だった。革命と反革命の話だった」


 カミラは息を整え、続けた。


「だが、今は違う。灰旗第九位。サロメ・ヴァルガ。お前の話になった」


「名は出ていません」


「出る」


 カミラはサロメを見た。


「彼はしつこいぞ」


「知っています」


「いいや、まだ知らない」


 その言葉に、サロメの目がわずかに冷えた。



 ◇


 夜。


 羊毛倉庫の二階では、全員が限界だった。


 ミハイルは薬で眠り、イーゴルは帳簿を抱えたまま寝落ちし、オルヴァンは封蝋片を握って寝ている。


 ヴィクトルはまだ起きている。


 印刷工たちは床で雑魚寝。


 リザと小屋番夫婦は、白翼の手引きで別の村へ送られた。


 レオンだけが、まだ机の前にいた。


 次の文面を書こうとしている。


 だが、筆が止まったまま動かない。


 ニーナは薬箱を片付けながら、それを見ていた。


「寝た方がいい」


「書けるところまで」


「書けてない」


「今から書く」


「さっきも聞いた」


「なら、違うことを言う」


「寝て」


「結局同じだ」


 ニーナは近づき、レオンの前に立った。


「肩を診る」


「今?」


「今」


「さっき診た」


「また血が滲んでる」


「少しだ」


「第一条」


「痛みを隠さない」


「そう」


「痛い」


「よろしい」


 ニーナはレオンの上衣を緩め、包帯を外した。


 傷は大きく開いてはいない。


 だが、炎の熱と山道と戦闘で、周囲が赤くなっていた。


「熱が出るかも」


「出ない」


「予言しない」


「願望だ」


「寝れば少しは叶う」


 ニーナは新しい布を巻こうとして、薬箱の中を探る。


「細布が足りない」


「俺の外套を切るか」


「もう切る場所がない」


「ひどい姿だな」


「あなたの使い方がひどい」


 ニーナは自分の袖を見た。


 屋根から引き上げた時に、レオンが噛み切った袖。


 まだ不格好に裂けている。


「これ使う」


「それは」


「もう破れてるから」


「俺のせいだな」


「そう」


 ニーナは袖の裂けた部分をさらに切ろうとして、手元を滑らせた。


 布が引っかかり、彼女の上衣の留め紐が一つ外れた。


「あ」


 次の瞬間、袖を押さえようとしたニーナが足元の紙束につまずいた。


 レオンは反射的に左腕を伸ばした。


 抱き止める。


 抱き止めた。


 だが、勢いが強すぎた。


 ニーナはそのままレオンの膝の上へ倒れ込み、薬箱から転がった軟膏の瓶が床へ跳ねた。


 上衣の胸元が少し緩み、肩口から白い肌が見えた。


 二人とも止まった。


 近い。


 近すぎる。


 ニーナの髪がレオンの頬へ触れている。


 レオンの左手は、彼女の背を支えていた。


 右手は使えない。


 使えないはずなのに、なぜか支えようとして中途半端な位置で固まっている。


「……見た?」


 ニーナの声が低い。


「生命維持に必要な範囲だけ」


「何それ」


「言い訳だ」


「最低」


「すまん」


「すぐ謝るところが余計に腹立つ」


「では謝らない方が」


「謝って」


「すまん」


 ニーナは起き上がろうとして、レオンの右肩へ手をつきかけた。


 慌てて引っ込める。


 そのせいで、今度はバランスを崩し、さらに近づいた。


「……動けない」


「俺もだ」


「何で」


「右肩が使えない」


「私は?」


「俺の左腕を踏んでいる」


「踏んでる?」


「たぶん」


「ごめん」


「謝るのか」


「謝るよ」


 そこで、床で寝ていたはずのミハイルが掠れ声で呟いた。


「……刷るか?」


 二人が同時に固まる。


 オルヴァンも目を開けずに言った。


「見出しは、亡国王子、治療中に撃沈」


「黙って!」


 ニーナが叫んだ。


 イーゴルが寝ぼけながら言う。


「記録には残すな……」


 ヴィクトルだけが、机の向こうで静かに目を閉じていた。


「私は何も見ていません」


「見てる!」


 ニーナがさらに叫ぶ。


 レオンは天井を見上げた。


「今日一番死にたい」


「死なせない係の前で言わない」


「では消えたい」


「それも駄目」


 ニーナはようやく体を起こし、上衣を直した。


 顔が赤い。


 怒っているのか、恥ずかしいのか、両方か。


 レオンは視線をそらした。


「レオン」


「何だ」


「次から、倒れる時は先に言う」


「言えるのか」


「努力する」


「駄目だ。考えてから倒れろ」


 ニーナは一瞬きょとんとし、それから吹き出した。


 小さな笑い。


 すぐに手で口を押さえたが、遅かった。


 レオンもつられて笑った。


 傷が痛む。


 それでも笑った。


 長い一日だった。


 カミラはまだ遠い。


 サロメはまだ倒れていない。


 だが、初めて殴り返した。


 そして、その夜だけは、灰色の旗より青いインクの方が少しだけ速く、大陸の風に乗った。



 ──第百七部 了


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