第百七部 灰色の旗へ、青いインクを叩きつける話 ③ 国境宿場で異変を知ったサロメと、届く反応
サロメ・ヴァルガが最初に異変を知ったのは、ザクセル国境へ向かう途中の宿場だった。
馬車の外が騒がしい。
馬の交換にしては、人が多すぎる。
彼女は窓を少し開けた。
宿場の壁に、紙が貼られている。
見出しは大きい。
――監察官カミラ・パヴェルを誰が動かしたのか。
サロメは、表情を変えなかった。
だが、指先だけが止まった。
「どうしました」
向かいのカミラが尋ねる。
両手を縛られ、左手首はさらに腫れている。
それでも、目だけは妙に晴れていた。
「何でもありません」
「なら、なぜ窓を閉めない」
サロメは無言で窓を閉めた。
カミラは薄く笑う。
「何か出たな」
「あなたには関係ありません」
「私の名前が出ているなら、関係あるだろう」
「名前は、本人の所有物ではありません」
「そういう考え方だから、失敗する」
サロメの視線がカミラへ向く。
「失敗?」
「レオンは馬鹿だが、怒らせた相手の名前は忘れない」
「怒りだけでは、紙は刷れません」
「だから、周りに面倒な者が増えている」
カミラは窓の外へ耳を澄ませた。
宿場の男が紙を読み上げている。
――灰倉院命令書と、北方伝令報告書は内容が矛盾。
――医師アンナ・リードの署名に偽造疑い。
――灰旗第九位の指示文書、監察官の国境証人再配置に言及。
サロメの顔から笑みが消えた。
完全な怒りではない。
驚きでもない。
計算が一つ狂った時の、冷たい空白。
カミラはそれを見逃さなかった。
「効いているな」
「一枚の紙です」
「違う」
カミラは縛られた手を少しだけ持ち上げた。
「お前が奪ってきた名前に、別の説明が付いた」
サロメは窓の外へ目を向ける。
宿場の壁に貼られた紙を、兵士が剥がそうとしている。
剥がしたそばから、子どもが別の紙を井戸の横へ貼った。
馬丁が読む。
旅商人が読む。
修道女が読む。
そして、誰かが言った。
「灰旗第九位って何だ」
サロメはその声を聞いた。
聞かれてしまった。
それだけで、状況は変わる。
「剥がしなさい」
彼女は外の兵へ命じた。
「全部ですか」
「全部」
その声には、初めて苛立ちが混じっていた。
カミラは目を閉じる。
痛みで気が遠くなる寸前だった。
それでも、笑った。
ざまあみろ。
言葉にはしなかった。
だが、表情には出た。
◇
羊毛倉庫では、最初の反応が次々に届いていた。
白翼の荷馬車が、街道沿いの宿へ紙を撒いた。
青いインクの子どもたちが、首都周辺の壁へ貼った。
ザクセルの改革派は、ミハイルの名を見て動揺した。
カラドリン商会連合では、オルヴァンの名で出した鑑定要求が受理された。
中央市民病院からは、アンナ・リードの署名偽造について照会状が出た。
そして、最も大きい知らせは、ガレスとアンナから届いた。
軍医会が、カミラ・パヴェル移送に使われた医療記録の再確認を要求。
東部臨時軍政庁は、受入手続を一時保留。
「止まったのか」
レオンが立ち上がる。
ヴィクトルが紙を読む。
「完全には止まっていません。ですが、正式な受入処理が遅れます」
「どれくらい」
「半日。長ければ一日」
レオンは拳を握った。
たった半日。
だが、サロメから半日奪った。
カミラを番号へ変える手続を止めた。
それは初めての、明確な反撃だった。
「倍返しには足りないな」
レオンが言う。
ニーナが横で答える。
「でも一発は入った」
「ああ」
ミハイルが掠れ声で言った。
「印刷屋としては、十分いい音がした」
オルヴァンが封蝋片を弾く。
「鋼なら、まだ凹んだ程度だ」
イーゴルが命令書を畳む。
「軍なら、ここから追撃だ」
ヴィクトルが静かに頷いた。
「次は、サロメ本人の名を正式文書に載せます」
「できるのか」
レオンが問う。
「今までは影でした。今は、第九位という階位がある。灰旗という印がある。命令書の矛盾がある。医師の偽署名がある。軍需局の馬が使われた記録がある」
「足りる?」
ニーナが聞く。
「十分ではありません」
ヴィクトルは即答した。
「ですが、疑うには足ります」
「疑わせれば、組織は止まる」
イーゴルが言う。
「軍は敵より、責任の所在を恐れる」
「最低だけど助かる」
ニーナが呟いた。
「国家とはそういうものです」
アンナならそう言いそうだ、とレオンは思った。




