第百七部 灰色の旗へ、青いインクを叩きつける話 ① 一歩ごとに後悔した、渡らなかった鹿鳴橋
鹿鳴橋で渡らなかったことを、レオンは一歩ごとに後悔した。
橋を越えれば、カミラへ届いたかもしれない。
届かなくても、せめて同じ側で血を流せたかもしれない。
だが、越えればサロメの作った物語が完成した。
亡国王子が国境を越え、イタリカ監察官を奪い、ザクセル国境で武力衝突を起こす。
それはカミラを助けるための行動ではない。
カミラを戦争の名前に変えるための行動だった。
だから渡らなかった。
正しい。
たぶん正しい。
だが、正しさは胸の痛みを減らしてはくれなかった。
「歩くの速い」
後ろからニーナが言った。
「急いでいる」
「急ぐのと、傷口を開くのは違う」
「開いていない」
「背中が嘘って言ってる」
「背中の証言能力が高すぎる」
「あなたが分かりやすすぎる」
リザは二人の少し後ろを歩いていた。
黒松峠の小屋番の娘は、足に巻いた包帯を気にしながらも、泣き言を言わなかった。
鹿鳴橋から引き返す途中、彼女は一度だけ、橋の向こうを見た。
そして、言った。
「私、あの灰色の人が嫌いです」
子どものように単純で、だからこそまっすぐな言葉だった。
レオンは振り返る。
「ああ」
「何度も罠を作って、人を使って、笑っていました」
「ああ」
「やり返せますか」
レオンは、少しだけ考えた。
今までなら、剣を握って「やる」と言っただろう。
今は違う。
剣だけでは届かない相手だ。
剣で斬れば終わる敵ではない。
名前を使い、紙を使い、国境を使い、人の恐怖を使う。
なら、こちらも使う。
名前を。
紙を。
生きている証人を。
サロメが作った物語の継ぎ目を。
「やり返す」
レオンは言った。
「倍にして返す」
ニーナが目を細める。
「言い方が物騒」
「実際、物騒な相手だ」
「剣で?」
「いや」
レオンは胸元の命令書を押さえた。
「紙で」
ニーナは少し笑った。
「成長した」
「やめろ」
「褒めてる」
「子ども扱いに聞こえる」
「子ども扱いも少し入ってる」
「正直すぎる」
その時、黒松林の奥から口笛が聞こえた。
三度。
短く、低く。
レオンが剣へ手を掛ける。
リザが怯えてニーナの後ろへ隠れる。
木の上から、白い布を巻いた斥候が降りてきた。
先ほど鹿鳴橋へ向かう道で、レオンを援護した男だ。
「白翼の者か」
レオンが尋ねる。
「正確には、白翼に借金のある者です」
「どちらでもいい。何の用だ」
「船長から伝言です」
「リヴィアか」
「名前は出すなと」
「今出したのはお前だ」
「私は怒られ慣れています」
斥候は細い筒を投げた。
レオンが受け取る。
中には、小さな紙が入っていた。
短い文。
――灰の旗は、風向きが変わると自分にも降る。
その下に、港や宿場の印がいくつも並んでいる。
「これは?」
「白翼の荷が通る場所です。紙を撒くなら、街道より速い」
「なぜ協力する」
「船長が、あなたが橋を渡らなかったなら渡せと言いました」
ニーナが驚いたように見る。
「渡ったら?」
「渡ったら、見捨てろと」
レオンは紙を握ったまま黙った。
リヴィアらしい。
優しいのか冷たいのか、いつも分かりにくい。
だが、信じる線ははっきりしている。
「それと、もう一つ」
斥候は懐から灰色の小袋を出した。
「鹿鳴橋へ向かった馬車のあとを、白翼の者が拾いました。途中の宿で落ちたものです」
小袋の中には、灰色の糸と、小さな封蝋片。
灰旗の印。
そして、書き損じの短い紙片。
――第九位の命により、監察官を国境証人として再配置。
レオンの目が変わった。
「第九位」
ニーナが繰り返す。
「サロメのこと?」
「おそらく」
レオンは紙片を見つめる。
これまで、灰旗は影だった。
灰色の女。
灰色の命令。
灰色の手先。
だが、この紙には階位がある。
第九位。
サロメが、ただの工作員ではないことを示す言葉。
「これを流せば」
ニーナが言う。
「サロメの名が出る」
「名だけでは弱い」
「でも、命令書と合わせれば?」
「強くなる」
レオンは顔を上げた。
「ヴィクトルへ戻る。すぐに」




