第百六部 黒松峠で、追いついたと思った話 ④ 谷に架かる古い木橋、鹿鳴橋
鹿鳴橋は、谷に架かる古い木橋だった。
橋の向こうは、ザクセル旧領へ続く国境道。
今は正式な国境ではない。
だが、戦争になれば最初に閉じられる場所だ。
橋の手前で、ニーナとリザが待っていた。
そして、橋の向こうには灰色の馬車があった。
今度は燃える仕掛けではない。
見張りもいる。
馬もいる。
サロメの外套も見えた。
馬車の扉が開く。
カミラが、兵に支えられて降ろされた。
遠い。
だが、確かに見えた。
レオンの足が止まる。
カミラもこちらに気付いた。
驚きはない。
怒りもない。
ただ、ほんのわずかに目を細めた。
来たか。
そんな顔だった。
レオンは橋へ向かおうとした。
サロメが手を上げる。
橋の中央に、ザクセルの旗が掲げられた。
次に、イタリカの軍旗。
最後に、旧グラニアの双頭鹿の小旗。
三つの旗が、橋の上で風に揺れた。
ニーナが息を呑む。
「何、あれ」
レオンは答えられない。
サロメの声が谷へ響いた。
「ここから先は、国境問題です」
彼女はカミラの肩へ手を置いた。
「亡国王子が橋を越えれば、イタリカ、ザクセル、そして帝国旧領を巻き込む事件になる」
「お前が作った事件だ」
レオンが叫ぶ。
「ええ」
サロメは微笑んだ。
「でも、越えるのはあなたです」
橋の下から水音が響く。
レオンは剣を握る。
橋を渡れば、届くかもしれない。
だが、渡った瞬間、サロメの物語が完成する。
亡国王子が、ザクセル国境でイタリカ監察官を奪う。
革命と反革命、帝国と王国、旧王国と新しい戦争。
全部が一つになる。
カミラが口を開いた。
遠くて声は届かない。
だが、唇は読めた。
来るな。
次に、もう一言。
生きろ。
レオンの手が震えた。
ニーナが横に立つ。
「どうする」
レオンは橋の向こうを見た。
カミラ。
サロメ。
三つの旗。
燃やされた峠の馬車。
救ったリザ。
止めた伝令。
奪った命令書。
走っているアンナとガレス。
今ここで渡れば、それら全部を自分の衝動で燃やすことになる。
「渡らない」
声が、自分のものとは思えないほど低かった。
サロメの目が、ほんの少しだけ動いた。
カミラは、目を閉じた。
安堵か。
悔しさか。
誇りか。
レオンには分からなかった。
「ただし」
レオンは命令書の写しを取り出し、高く掲げた。
「この紙は、大陸中へ出す」
サロメの笑みが消えた。
「お前が、カミラ・パヴェルを使って作ろうとした物語も、全部だ」
谷に風が吹いた。
紙が揺れる。
サロメはカミラを馬車へ戻させた。
灰色の馬車は、橋の向こうへ進む。
カミラの姿が消える。
レオンは一歩も動かなかった。
ニーナも、リザも黙っていた。
馬車が完全に見えなくなったあと、レオンは膝をついた。
剣を地面へ突き立てる。
肩の血がまた滲んでいる。
ニーナが隣へ膝をついた。
「追わなかった」
「ああ」
「すごい」
「全然すごくない」
「すごいよ」
「今すぐ吐きそうだ」
「それは診る」
「心の方だ」
「診療範囲外」
レオンは少しだけ笑った。
笑った瞬間、涙が一滴だけ落ちた。
泣いているのか、痛みなのか、自分でも分からなかった。
「次は」
レオンが言った。
「次は、橋を渡らずに取り返す」
ニーナは頷いた。
「うん」
「そのために、紙を出す」
「うん」
「ヴィクトルへ戻る」
「その前に肩」
「今?」
「今」
レオンは空を見上げた。
黒松の枝の隙間から、細い光が落ちている。
カミラは遠ざかった。
だが、今度はただ置いていかれたのではない。
橋を越えなかった。
越えないことで、次の道を残した。
それが勝利なのか敗北なのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ分かる。
サロメは、レオンが渡ると思っていた。
そして、レオンは渡らなかった。
初めて、灰色の女の読みを一つ外した。
──第百六部 了




