第百六部 黒松峠で、追いついたと思った話 ② 命に別状はなかった小屋番の夫婦
小屋番の夫婦は、命に別状はなかった。
夫は頭を打っていたが、骨は折れていない。
妻は左腕を折られていた。
リザは火傷と擦り傷だけで済んだ。
ただし、三人とも、灰旗の男たちが何をしたか覚えていた。
「夜明け前でした」
小屋番の夫が、頭へ布を巻かれながら言った。
「軍の馬車が来た。医療搬送札が付いていたので、馬を替えるのだと思った」
「カミラは見たか」
レオンが尋ねる。
「女の人が一人。手を縛られていました。顔はよく……でも、兵ではない灰色の女が一緒に」
「サロメ」
「名前は分かりません」
「その女は何を」
「馬車を二つに分けろと」
「二つ?」
「灰色の馬車はここに残し、燃やす仕掛けをした。もう一つ、小さな馬車を北東の旧炭焼き道へ」
ニーナが地図を広げる。
「旧炭焼き道は?」
小屋番の妻が弱い声で答える。
「黒松の奥を抜けて、二つに分かれます。一つは東の軍道へ。もう一つは北の古い国境道へ」
「どちらへ行った」
「分かりません。でも」
妻はリザを見る。
リザが震えながら言う。
「灰色の女が、こう言ってました」
彼女は息を吸う。
「王子は、追う道を間違えない。間違えても、間違えた理由ごと使える」
レオンの手が止まる。
ニーナが低く言った。
「読まれてる」
「だろうな」
「どうする?」
レオンは地図を見る。
二つの道。
軍政庁。
国境道。
サロメが望むのは何か。
カミラを東部軍政庁へ運ぶことか。
それとも、レオンにそう思わせて、別の場所へ運ぶことか。
リザを餌にしたのは、レオンの動きを見るため。
では、次に仕掛けるなら。
「ザクセル国境だ」
レオンが言った。
「なぜ」
「サロメは、俺を東部軍政庁へ向かわせたい。そこには軍がいる。俺が突っ込めば、反逆者として完成する」
「だから本命は国境?」
「カミラを、ザクセル事件と直接結びつける場所へ運ぶ」
ニーナが地図を見つめる。
「でも、そう思わせたい罠かも」
「そうだ」
「じゃあ分からない」
「分からないが、サロメなら、俺が一番嫌がる方を選ぶ」
「何?」
「カミラを、戦争の証拠にする場所だ」
ニーナは黙った。
その判断が正しいかは分からない。
だが、レオンの顔には迷いがある。
迷った上で、決めようとしている。
「行くなら、国境道」
ニーナが言った。
「いいのか」
「私はサロメを知らない。でも、カミラさんを一番嫌な形で使うなら、たぶんそっち」
「なぜ分かる」
「あなたの顔がそう言ってる」
「また顔か」
「うん」
小屋番の夫が弱々しく手を上げた。
「古い国境道へ行くなら、馬は一頭しか使えません。道が狭い。馬車は途中で捨てるはずです」
「そこから先は?」
「徒歩か、山馬です」
「追いつけるか」
「道を知っていれば」
「道を知る者は」
リザが恐る恐る言った。
「私、知ってます」
ニーナが即座に首を振る。
「駄目」
「でも」
「あなたは怪我をしている」
「歩けます」
「歩けると道案内できるは別」
「できます!」
リザは涙目で叫んだ。
「あの人たちは、父と母を殴って、私を馬車に縛って、燃やそうとした。私、ただ助けられて終わりたくない」
ニーナは言葉に詰まった。
レオンはリザを見る。
彼女は震えている。
怖がっている。
それでも、逃げるだけでは終われない顔をしていた。
その顔を、レオンは知っている。
ニーナも、知っている。
「馬で行けるところまででいい」
レオンが言った。
「その先は戻れ」
「戻りません」
「戻れ」
「嫌です」
「危険だ」
「知ってます」
「家族がいる」
「だからです」
リザは涙を拭いた。
「また来られたら、道を知らないまま待つだけになります」
ニーナは小さく息を吐いた。
「包帯を巻き直す」
「え?」
「足。歩くなら、擦り傷を保護する」
「行っていいんですか」
「途中まで」
「でも」
「途中まで」
ニーナの声は、患者を黙らせる時の声だった。
リザは頷いた。




