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第百六部 黒松峠で、追いついたと思った話 ① 馬にも人にも優しくなかった黒松峠

 黒松峠へ向かう道は、馬にも人にも優しくなかった。


 細い山道。


 濡れた落ち葉。


 片側は岩壁で、もう片側は深い谷。


 レオンは馬の手綱を左手で握り、右肩を庇いながら進んでいた。


 後ろにはニーナが乗っている。


 薬箱を胸とレオンの背中の間に挟み、落ちないよう必死に膝で鞍を締めている。


「揺らさないで」


「馬に言え」


「馬は悪くない」


「俺か」


「だいたい」


「理不尽だ」


「右肩を庇って左へ寄るから馬が曲がる」


「よく分かるな」


「背中がうるさい」


「顔だけでなく背中まで喋るのか」


「すごく喋る」


 レオンは言い返そうとして、やめた。


 黒松峠の中腹には、古い馬継ぎ小屋がある。


 軍用道ではない。


 巡礼道と山仕事の道が交わるだけの小さな場所だ。


 だが、配車票には確かにそこが書かれていた。


 ――黒松峠。馬二頭。水袋四つ。医療搬送札、灰色。


 カミラを乗せた馬車が、そこで馬を替える。


 間に合えば、追いつける。


 間に合わなければ、また遠ざかる。


 それだけだった。


 山道の先に、黒松の林が見えた。


 太い幹が朝霧の中に立ち、枝が空を覆っている。


 峠の小屋は、その影の下にあった。


 屋根は低く、馬小屋が二つ。


 水桶。


 薪置き場。


 そして、馬車が一台。


 灰色の布で覆われている。


 レオンの手が手綱を強く握った。


「いた」


 ニーナが小さく言う。


 灰色の馬車。


 車輪には、まだ新しい泥。


 馬は外されている。


 御者台には誰もいない。


 見張りもいない。


 静かすぎた。


「止まって」


 ニーナが言った。


 レオンも同じことを考えていた。


 彼は馬を道端へ寄せ、降りる。


 右肩に痛みが走った。


 ニーナが先に気付く。


「顔」


「何も言っていない」


「言う前に分かる」


「便利すぎる」


「便利にさせてるのは誰」


 彼女は薬箱を背負い直し、灰色の馬車を見る。


「臭いが変」


「何の」


「薬じゃない。血でもない。油」


 レオンは剣へ手を掛けた。


「火か」


「たぶん」


 馬車の中から、かすかな音がした。


 布が擦れる音。


 人の息のような音。


 レオンの足が前へ出る。


 ニーナが袖を掴んだ。


「待って」


「中にいる」


「だから待って」


「カミラかもしれない」


「だったら、なおさら」


 ニーナは地面を見た。


 馬車へ続く足跡。


 人を運んだ跡。


 そして、馬車から離れる足跡がない。


「誰かを入れたまま、周りを歩いた跡がない」


「つまり」


「置いた」


 その時、馬車の中から声がした。


「……助け」


 女の声。


 掠れている。


 レオンの顔が変わる。


 ニーナの手に力が入った。


「カミラさんの声?」


「違う」


 レオンは即答した。


 それでも、声が助けを求めていることに変わりはない。


 ニーナが短く息を吸う。


「私が見る」


「危険だ」


「あなたが見る方が危険」


「なぜ」


「カミラさんの声に似せられていたら、絶対に踏み込む」


 否定できなかった。


 ニーナは馬車へ近づいた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 油の臭いが強くなる。


 荷台の下に、細い縄が見えた。


 ニーナは足を止める。


「縄」


 レオンが地面へ伏せる。


 縄は車輪の内側から、馬車の後ろへ伸び、薪置き場の陰へ入っていた。


 その先には、火打ち石と乾いた藁。


「踏めば火が走る」


 レオンが言った。


「中の人は?」


「本物なら、火で殺すための餌だ」


 ニーナの顔から血の気が引く。


「ひどい」


「ひどいが、急がないと本当に死ぬ」


 レオンは剣を抜こうとして、ニーナに止められた。


「剣で縄を切ると動くかも」


「では」


「固定する」


 ニーナは薬箱から包帯を取り出し、地面に伏せたまま、縄の手前へ石を噛ませた。


 次に、濡れた布を藁の上へ投げる。


「火が出ても少し遅れる」


「少し?」


「少し」


「十分だ」


「本当に?」


「今は、そう信じる」


 レオンは馬車の横へ回り、布を切った。


 中にいたのは、カミラではなかった。


 若い女。


 口に布を噛まされ、手足を縛られ、カミラのものに似た黒い外套を掛けられている。


 首には、灰色の札。


 ――監察官代替。


 レオンの奥歯が鳴った。


「ふざけるな」


 女の目は恐怖で見開かれている。


 ニーナがすぐに荷台へ上がった。


「大丈夫。今出す」


 女が必死に首を振る。


 足元。


 ニーナが見る。


 女の足首にも細い縄。


 引けば、別の仕掛けが動く。


「二重」


 ニーナが呟いた。


「切れない?」


「切る場所を間違えると火がつく」


「どこなら」


「黙って。考えてる」


 レオンは黙った。


 馬車の外で、風が黒松を揺らす。


 峠のどこかで、鳥が一斉に飛んだ。


 誰かが見ている。


 急がせたいのだ。


 焦らせたい。


 レオンに、カミラではない女をカミラだと思わせ、飛び込ませ、火を付けさせたい。


「ニーナ」


「何」


「俺が荷台を持ち上げる」


「肩」


「左と背中で」


「無理」


「少し浮けば縄が緩む」


「肩が開く」


「今は女が焼ける」


 ニーナは一瞬だけ迷った。


 迷ったが、すぐに頷いた。


「一呼吸だけ」


「分かった」


「本当に一呼吸」


「分かった」


 レオンは荷台の縁へ左手を掛け、膝と背中で車体を押し上げた。


 右肩へ激痛。


 歯を食いしばる。


「まだ?」


「まだ!」


 ニーナが縄へ刃を入れる。


 一本目。


 緩む。


 二本目。


 女の足が自由になる。


「離して!」


 レオンは力を抜いた。


 車体が落ちる。


 その振動で、別の縄が動いた。


 火打ち石が鳴る。


 藁に火が移った。


 濡れ布で一瞬だけ弱まる。


「出して!」


 ニーナが女を抱える。


 レオンが荷台から引きずり出す。


 三人が地面へ転がった直後、馬車の内側へ火が走った。


 油が燃える。


 灰色の布が一気に炎へ変わった。


 熱風が顔を打つ。


 女が悲鳴を上げる。


 レオンは彼女を庇い、ニーナを引き寄せた。


「怪我は」


 ニーナが女へ聞く。


 女は震えるだけで答えられない。


 ニーナは頬を軽く叩いた。


「名前」


「……リザ」


「リザ。息して。ここ見て」


 リザの目がニーナへ向く。


「カミラさんは?」


 レオンが尋ねる。


 リザは震えながら、黒松の林の奥を指した。


「灰色の女が……言ってた。王子は、必ず馬車を開けるって」


「カミラはどこだ」


「ここには……最初からいない」


 レオンの息が止まる。


「最初から?」


「馬車は、峠の手前で分かれた。監察官の女は、馬に乗せられて……北東へ」


「黒松峠では馬を替えていないのか」


「替えたのは、この馬車だけ……」


 ニーナがリザの手首を見る。


 縄の跡が新しい。


 爪の間に土。


 服は平民のものだ。


「あなたは誰?」


「峠の小屋番の娘……父も、母も、縛られて……」


「どこ」


 リザが馬小屋を見る。


 ニーナが走る。


 馬小屋の中には、中年の夫婦が倒れていた。


 生きている。


 だが、殴られて意識が朦朧としている。


「レオン!」


「分かった」


 レオンは馬小屋へ向かおうとした。


 その時、黒松林の奥から拍手が聞こえた。


 一回。


 二回。


 三回。


 ゆっくりと。


 レオンは剣を構えた。


 林の影から現れたのは、灰色の外套を着た男だった。


 サロメではない。


 だが、袖に灰色の旗の刺繍がある。


「お見事です。代替品も焼かずに救うとは」


「サロメはどこだ」


「さあ」


「カミラは」


「さあ」


 男は笑った。


「ですが、あなたがここで足を止めている間に、監察官は北東へ進みました」


「なぜ待っていた」


「見届けるためです」


「何を」


「あなたが、女一人を見捨てられないかどうか」


 男の視線がリザへ向く。


「見捨てられませんでしたね」


「それが何だ」


「次も、そうする」


 レオンの目が細くなる。


 男は一歩下がった。


「急いだ方がいい。北東の道は二つに分かれます。片方は東部軍政庁。片方はザクセル国境。どちらでしょうね」


 男が懐へ手を入れる。


 毒か。


 レオンが踏み込む。


 だが、男が投げたのは煙玉だった。


 黒い煙が林へ広がる。


 レオンは追おうとした。


 ニーナが叫ぶ。


「追わない!」


「だが」


「小屋番が死ぬ!」


 馬小屋の夫婦。


 リザ。


 燃える馬車。


 逃げる灰旗の男。


 北東へ遠ざかるカミラ。


 また選択だった。


 レオンは剣を握ったまま、林を睨んだ。


 追えば、あの男から道を聞き出せるかもしれない。


 だが、小屋番夫婦は血を流している。


 リザは震えている。


 ニーナ一人では三人を診きれない。


「くそ」


 レオンは剣を鞘へ戻した。


 馬小屋へ走る。


 ニーナが一瞬だけ彼を見る。


「良い方の馬鹿」


「褒め方を考えろ」


「後で」



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