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第百五部 灰の中から、追うべき道を選ぶ話 ② 古い石橋しかなかった北への伝令道

 北へ向かう伝令は、古い石橋を通るしかなかった。


 巡礼道と軍用道が交わる場所。


 馬なら速いが、橋の上だけは速度が落ちる。


 ガレスはそこを選んだ。


「殺すな」


 レオンが言う。


「言われなくても」


「生きたまま報告書を奪う」


「分かっている」


「本当に?」


 ニーナが横から聞く。


 ガレスは少し不満げに眉を寄せた。


「俺への信頼が低い」


「前職が賞金首狩り」


「否定しにくい」


 アンナは息を整えながら、石橋の下の茂みに身を沈めている。


 彼女の頬は腫れたままだ。


 それでも、目だけは怯えていなかった。


「伝令が来ます」


 ガレスが囁く。


 蹄の音。


 一騎。


 速い。


 橋の向こうから、灰色の外套を着た伝令が現れた。


 胸には軍保安局の印。


 だが、鞍袋の留め紐は灰色。


 サロメの手が混じっている。


「馬は傷つけない」


 ニーナが言った。


「分かっている」


 レオンは橋の中央へ出た。


 伝令が叫ぶ。


「退け!」


「道を聞きたい」


「退け!」


 伝令は速度を落とさない。


 レオンは最後の一歩まで待った。


 馬が目前へ来る。


 その瞬間、橋の下からガレスが投げた布が馬の目の前を横切った。


 馬が驚き、前足を上げる。


 伝令が体勢を崩す。


 レオンは左手で手綱を掴み、身体をひねって馬の首元へ沿うように動いた。


 右肩は使わない。


 左手だけで伝令の腰帯を掴む。


「落ちろ」


 伝令が短剣を抜く。


 ニーナが下から石を投げた。


 短剣を持つ手へ当たる。


「あっ」


 投げた本人が驚く。


「当たった」


「狙ったんじゃないのか」


 ガレスが言いながら、伝令の足を引いた。


 伝令は橋の上へ転がる。


 アンナがすぐに駆け寄り、落馬した男の頭を確認する。


「意識あり。首は大丈夫」


「縛る」


 ガレスが男を押さえる。


 伝令は歯を食いしばった。


「舌を」


 アンナが叫ぶ。


 ガレスが顎を押さえる。


 男の口から黒い粒が転がった。


 ニーナがそれを布で拾う。


「また毒」


「使わせるな」


 レオンは鞍袋を開けた。


 中に報告書がある。


 灰倉院襲撃報告。


 見出しだけで、内容は予想できた。


 ――亡国王子レオン・ヴァン・リュカリオン、武装集団を率いて灰倉院を襲撃。


 ――拘束者二名を奪取。


 ――監察官カミラ・パヴェルは、救出を拒否し、東部軍政庁への移送を希望。


 レオンの手が止まった。


「ふざけるな」


 紙が震える。


 ニーナが横から取り上げる。


「握り潰さない」


「読んだか」


「読む」


 彼女は紙を見て、顔を歪めた。


「ひどい」


 アンナが続きの文面を見る。


「私の署名も使われています」


「何?」


「アンナ・リード医師確認。拘束者移送に医療上の問題なし、と」


「署名したのか」


「していません」


 アンナの声が低くなる。


「筆跡が違う。私はこんな雑なRを書きません」


「そこ?」


 ニーナが思わず言う。


「そこが大事です」


 アンナは報告書を奪うように見た。


「医療偽造は、殺人の前段階です」


 伝令が笑った。


「遅い。写しはもう二通出ている」


 ガレスが首元へ短剣を当てる。


「どこへ」


「東と西」


「西?」


「ヴェルシャイン使節館。亡国王子が動いたと知れば、王国は食いつく」


 レオンの顔が変わる。


 帝国だけではない。


 王国も動く。


 サロメは、レオンが灰倉院へ来た事実さえ、大国を動かす餌にするつもりだ。


「もう一通は?」


 アンナが問う。


「カラドリン商会連合」


 オルヴァンの証言を潰すためか。


 ガレスが舌打ちした。


「全部は止められない」


「一通止めた」


 ニーナが言う。


「でも二通は走ってる」


「なら、こちらも走らせる」


 レオンは命令書と偽報告書を並べた。


「ヴィクトルへ送る。イーゴルの名で軍需局へ。アンナの名で中央市民病院へ。オルヴァンの名でカラドリンへ」


「三方向」


 ガレスが言う。


「人手は足りん」


「伝令の馬がいる」


 ニーナが馬を見る。


「馬に罪はない」


「だから働いてもらう」


 アンナが伝令の鞍袋を調べる。


「封蝋があります。軍保安局の正式封蝋です」


「使えるか」


「偽造ではなく、奪取した正規封蝋です」


「言い方で罪が変わるな」


「変わりません。罪は罪です」


 アンナは平然と言った。


「ただ、患者を殺す書類を止めるためなら、私は罪名を後で聞きます」


 ニーナが少し笑った。


「医者って怖い」


「あなたも似たようなものです」


「医者じゃない」


「では、死なせない係」


「それなら」


 レオンは馬の手綱を取る。


「俺が戻る。ヴィクトルへ紙を」


「駄目」


 ニーナが即答する。


「なぜ」


「あなたが戻れば、カミラさんの馬車を追いに行く」


「行かない」


「今の声は行く声」


「俺の声も顔も忙しすぎる」


 ガレスが言う。


「俺が行く」


「怪我」


 ニーナとアンナが同時に言った。


「俺が一番、道を知っている」


「倒れる」


「倒れない」


「信用できません」


 アンナが冷静に言う。


 ガレスは眉を寄せる。


「医師二人に言われると腹が立つな」


「では、私が行きます」


 アンナが言った。


「あなたが?」


 レオンが驚く。


「中央市民病院へは、私の名前で直接出した方が早い。偽署名を否定できます。そこから軍医会へ照会を回せば、移送命令に傷を付けられる」


「危険だ」


「ここにいる時点で危険です」


「一人で行かせられない」


「では、ガレスさん」


「なぜ俺だ」


「あなたは怪我人ですが、道を読める。私は医師ですが、馬を飛ばせない。二人で一人分です」


 ガレスは一瞬だけ黙り、口元を歪めた。


「ひどい計算だ」


「正確です」


 ニーナがアンナを見る。


「本当に行くの?」


「私の署名を、これ以上勝手に歩かせたくありません」


 ニーナは頷いた。


「分かった。ガレス、無理したら後で縫う」


「何を」


「いろいろ」


「脅しだな」


「医療」


 ガレスとアンナは伝令の馬に乗る準備を始めた。


 レオンは命令書の写しと偽報告書を手渡す。


「必ず届けてくれ」


「届けます」


 アンナは受け取った。


「それと」


「何です」


「カミラがあなたを信じていた」


 アンナは一瞬、言葉を失った。


「私は、彼女の味方ではありません」


「知っている」


「患者です」


「それで十分だ」


 アンナは小さく息を吐いた。


「あなたも、カミラさんが言うほど馬鹿ではありませんね」


「さっきも聞いた」


「医師二人の所見なら、少し信頼できます」


 ガレスが馬へ跨がる。


「行くぞ。これ以上いると、俺まで医者にされる」


「それはない」


 ニーナが言う。


「向いていない」


「分かっている」


 馬が走り出す。


 北へ。


 中央市民病院と軍医会へ。


 これで一つ、道が開くかもしれない。


 同時に、レオンの側からガレスが離れた。


 残ったのは、レオンとニーナ。


 そして、縛られた伝令。


「さて」


 ニーナが言った。


「あなたはどうするの」


「東へ行く」


「やっぱり」


「ただし、追いつくためではない」


「本当?」


「次の中継地を読む」


 レオンは偽報告書の裏に挟まれていた薄い配車票を見せた。


 そこには、馬の交換地が書かれていた。


 黒松峠。


 東部軍政庁へ向かう手前の中継地。


「ここなら、先回りできるかもしれない」


「二人で?」


「二人で」


「患者一人と、医者じゃない一人で?」


「俺は患者では」


 ニーナが見る。


「患者だ」


「……患者一人と、死なせない係一人で」


「少し良くなった」


 ニーナはレオンへ剣を返した。


「今度は預からない」


「なぜ」


「自分で持って。だけど勝手に抜いたら怒る」


「難しいな」


「生きるのはだいたい難しい」


 レオンは剣を受け取った。


 重さが戻る。


 だが、その重さは先ほどまでと少し違った。


 剣だけでは追えない。


 紙だけでも足りない。


 誰かの署名。


 誰かの証言。


 誰かの治療。


 それらを全部抱えて、ようやくカミラへ近づける。


「行こう」


 レオンが言った。


 ニーナは薬箱を背負い直す。


「今度こそ、考えてから走って」


「ああ」


「本当に?」


「努力する」


「駄目」


「考えてから走る」


「よし」


 二人は東へ向かった。


 黒松峠。


 カミラの馬車が、次に馬を替える場所。


 追いつけるかもしれない。


 また罠かもしれない。


 それでも、今度はただ飛び込むのではない。


 止めた報告書。


 奪った命令書。


 走り出したアンナとガレス。


 灰倉院から生き延びた証人たち。


 散らばった火が、初めて一つの追跡路になっていた。



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