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第百五部 灰の中から、追うべき道を選ぶ話 ① 夜が明けても燃えていた灰倉院

 灰倉院は、夜が明けても燃えていた。


 石壁は崩れない。


 だが、木の扉も、古い梁も、祭壇の飾りも、死者を数えるための帳簿棚も、全部が黒く焦げていた。


 その焼け跡の外で、ニーナは三人目の患者へ包帯を巻いていた。


 一人目はイーゴル。


 肋骨の固定。


 二人目はオルヴァン。


 煙を吸った喉と、腫れた右目。


 三人目はガレス。


 肩の刺し傷と、脇腹の打撲。


「この旅、怪我人が減らない」


 ニーナが低く言った。


「旅というほど優雅ではない」


 ガレスが答える。


「口答えできるなら、まだ大丈夫」


「それは診断か」


「苛立ち」


「正直だな」


「正直に痛いと言わない人が多いから」


 ニーナの視線がレオンへ向く。


 レオンは少し離れた岩の上で、奪った命令書を読んでいた。


 右肩の包帯には血が滲んでいる。


 だが、本人は紙から目を離さない。


「レオン」


 ニーナが呼ぶ。


「何だ」


「肩」


「後で」


「今」


「この紙を先に」


「肩」


 レオンは紙を持ったまま黙った。


 ニーナは立ち上がり、彼の前へ行く。


「選んで」


「何を」


「紙を読むか、肩を診せるか」


「紙だ」


「じゃあ紙を燃やす」


「待て」


「肩」


「……分かった」


 レオンはしぶしぶ紙を畳んだ。


 その隣で、オルヴァンが片目だけで笑う。


「よい職人だな、その女は」


「職人?」


 ニーナが振り向く。


「壊れかけたものを叩いて直す」


「人を鍋みたいに言わないで」


「鋼より面倒だ。人間は文句を言う」


「ドワーフもかなり言う」


「俺は鑑定しているだけだ」


 アンナはイーゴルの呼吸を見ながら、小さく息を吐いた。


「この人数で冗談を言えるなら、まだ全滅ではありませんね」


「医師の判断としてどうなんだ」


 ガレスが言う。


「雑です」


「ニーナと同じだ」


「一緒にしないでください」


「私も一緒にしないでほしい」


 二人の医療者が同時に言い、少しだけ空気が緩んだ。


 だが、その緩みは長く続かなかった。


 イーゴルが咳き込みながら手を伸ばした。


「命令書を」


 レオンがそばへ戻る。


「横になっていろ」


「それは医師が言うことだ」


「医師二人が頷いている」


「なら、なおさら急がねばならん」


 イーゴルは震える指で命令書の束をめくった。


 数枚読んだだけで、額へ汗が浮く。


「これは、ただの移送命令ではない」


「何が書いてある」


「三系統の命令が混ざっている」


「三系統?」


「軍保安局、国家保安局、そして……」


 イーゴルは紙の端の小さな印を睨む。


「公式組織ではない印だ」


 灰色の小旗。


 その下に、細い輪が刻まれている。


「灰旗」


 ヴィクトルが言っていた名を、レオンが呟く。


 アンナの顔が強張る。


 カミラを連れていった女。


 サロメ・ヴァルガ。


 ようやく敵の名が紙の上に現れた。


「この命令書を軍需局へ出せば」


 レオンが言う。


「軍内部は割れる」


 イーゴルが答えた。


「だが、先に向こうの報告が届けば、我々は偽造者になる」


「向こうの報告?」


「灰倉院で、亡国王子が拘束者を奪い、証拠隠滅のため放火した。そう書くはずだ」


「もう書いているだろうな」


 ガレスが周囲を見る。


「馬の蹄が新しい。ここから東へ一騎、北へ一騎」


「伝令か」


「おそらく」


 レオンは立ち上がった。


「追う」


「どちらを」


 ガレスが問う。


 レオンは即答しなかった。


 東。


 カミラを乗せた馬車が向かった方角。


 北。


 報告書を持った伝令が軍の中枢へ向かったかもしれない方角。


 今までなら、迷わず東へ走った。


 だが、カミラは言った。


 紙を。


 レオンは命令書を握り締める。


「北の伝令を止める」


 ニーナが彼を見る。


「いいの?」


「よくない」


 レオンは低く答えた。


「でも、東へ走っても追いつけない。北の伝令を止めなければ、カミラが生きていても、俺たちの言葉が全部偽物になる」


 ガレスが短く頷いた。


「ようやく追いかけ方を覚えたな」


「褒めているのか」


「たぶん」


「腹が立つ」


「その顔なら大丈夫だ」


 ニーナはレオンの肩の包帯をきつく結び直した。


「北へ行くなら、右腕は使わないで」


「分かった」


「本当に?」


「努力する」


「努力じゃ駄目」


「……使わない」


「よし」


 アンナが薬箱を閉じる。


「私も行きます」


「駄目です」


 ニーナが即答した。


「あなた、殴られて箱に入れられてたでしょう」


「だから行くのです。死亡診断書と移送命令の矛盾を説明できる医師が必要です」


「歩けるの?」


「歩けます」


「嘘」


「医師は患者に嘘をつくことがあります」


「最悪」


「今回は必要な嘘です」


 オルヴァンが立ち上がろうとする。


「俺も行く」


「あなたは座って」


 ニーナとアンナが同時に言った。


 オルヴァンは不満げに鼻を鳴らす。


「鋳印を読める者が必要だろう」


「目が腫れている」


「片目で十分だ」


「煙を吸ってる」


「喉は使わん」


「歩ける?」


「少し」


 ニーナが近づき、オルヴァンの膝を軽く叩いた。


 オルヴァンは崩れ落ちそうになった。


「座って」


「……座る」


「よし」


 イーゴルが命令書をレオンへ押し返した。


「北へ行け。伝令が持つ報告を奪え。こちらの命令書と照合できれば、軍の中に割り込める」


「あなたは」


「生きて待つ」


「信用していいのか」


「私の肋骨に聞け」


 イーゴルは苦しそうに笑った。


「死ぬなら、とっくに死んでいる」



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