第百四部 助けに来た男へ、助けるなと言う女の話 ④ 赤かった空と、再び縛られたカミラの手
灰倉院の外へ出た時、空は赤かった。
朝焼けではない。
地下から上がった炎が、朽ちた礼拝堂の屋根を焼いていた。
イーゴルは地面へ横たえられ、アンナが必死に呼吸を見ている。
オルヴァンはガレスに支えられながら座り込み、片目で燃える修道院を睨んでいた。
「カミラは」
ニーナが聞いた。
レオンは答えられなかった。
炎の向こうで、軍用馬車が一台、森の奥の道を走り去っていく。
灰色の布で覆われた馬車。
サロメの馬車だ。
カミラがその中にいる。
レオンは走ろうとした。
だが、膝が崩れた。
右肩から血が落ちている。
矢が掠めた傷ではない。
祭壇へ走った時に、古い傷がまた開いていた。
ニーナが支える。
「行かない」
「まだ見える」
「行かない」
「カミラが」
「命令書を取った」
ニーナはレオンの胸元を叩いた。
「彼女が言ったんでしょう。紙を取れって」
レオンは馬車を見る。
遠ざかる。
森へ消える。
拳が震える。
だが、今度は追わなかった。
追えなかったのではない。
追わないと決めた。
「……必ず行く」
声が掠れた。
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
カミラへか。
自分へか。
それとも、あの灰色の女へか。
ガレスが命令書の束を受け取る。
「読めるか」
レオンは頷いた。
灰色の紐を解く。
一枚目。
カミラ・パヴェル、東部臨時軍政庁へ。
二枚目。
イーゴル・セヴェリン、死亡処理予定。
三枚目。
オルヴァン・ケルド、死亡処理予定。
四枚目。
ミハイル・ドレン、逃亡を利用し、亡国王子との関係を強調。
五枚目。
レオン・ヴァン・リュカリオンが現れた場合、殺害せず、目撃者を残すこと。
レオンの手が止まった。
「目撃者を残す?」
ニーナが読む。
ガレスの顔が険しくなる。
「俺たちが逃げたことも、計画のうちか」
アンナが低く言う。
「いいえ。全部ではない」
「どういうことだ」
オルヴァンが咳き込みながら言った。
「あの女は、失敗しても利用できる形にしているだけだ。職人としては嫌いだが、手つきは分かる」
イーゴルが目を開けた。
苦しそうに、だが確かに言う。
「この命令書があれば、軍内部にサロメの指示を流せる」
「生きていたのか」
ガレスが言う。
「勝手に殺すな」
イーゴルはレオンを見る。
「監察官は?」
レオンは答えるまで時間が掛かった。
「連れていかれた」
「そうか」
「すまない」
「謝る相手が違う」
「何?」
「私を生かしたなら、使え」
イーゴルは震える指で命令書を指した。
「私の名で、軍需局の帳簿を開かせる。カミラ・パヴェルを取り戻す道は、剣ではなく、軍の記録にもある」
レオンは命令書を握り締めた。
カミラは遠ざかった。
だが、ただ失ったわけではない。
イーゴルが生きた。
オルヴァンも生きた。
命令書を得た。
サロメの名前が、紙の上に残った。
灰倉院は燃えている。
その炎の前で、レオンはようやく理解した。
救出は失敗した。
だが、戦いは初めて、敵の喉元へ触れた。
◇
森の奥を走る馬車の中で、カミラは再び手を縛られていた。
左手首の痛みで、意識が何度も遠のく。
それでも、唇には薄い笑みが残っていた。
向かいに座るサロメが言う。
「嬉しそうですね」
「そう見えるか」
「見えます」
「なら、目が良い」
「彼はあなたを置いていきました」
「違う」
カミラは顔を上げた。
「私が置いていかせた」
「強がりですか」
「いいや」
カミラは窓の外を見る。
灰倉院の煙が、遠くに上がっている。
「今頃、あの男は死ぬほど悔しがっている」
「それが嬉しい?」
「ああ」
「なぜ」
「次は、もう少し賢く来る」
サロメは少しだけ黙った。
「あなたは、彼を信じているのですね」
「信じている?」
カミラは笑った。
「違うな」
「では?」
「放っておくと、また無茶をすることを知っている」
サロメは初めて、ほんの少しだけ不快そうな顔をした。
カミラはそれを見て、さらに笑った。
勝ったわけではない。
自分はまだ囚人だ。
だが、あの灰色の女の手から、ほんの一枚、紙が奪われた。
そしてレオンは、それを持って生きている。
それだけで、次の反撃は始まっている。
──第百四部 了




