第百四部 助けに来た男へ、助けるなと言う女の話 ① 鳴らないはずだった鐘と、半分崩れた灰置き場
灰倉院の鐘は、もう鳴らないはずだった。
疫病の時代に死者を数えるための鐘楼は半ば崩れ、紐も朽ち、鳥の巣が梁に掛かっている。
それでも、風が吹くたびに、割れた鐘が低く鳴った。
ごん、と。
死者ではなく、まだ死んでいない者を呼ぶように。
ガレスは森の斜面に腹ばいになり、朽ちた修道院跡を見下ろしていた。
「見張りは外に八。中は分からん」
レオンはその横に伏せている。
ニーナは薬箱を抱え、少し後ろでアンナの頬の腫れを見ていた。
「痛む?」
「患者の前で痛がる医師はいません」
「いるよ」
「あなたですか」
「私は医者じゃない」
「便利な逃げ方ですね」
アンナは腫れた頬へ濡れ布を当てながら、修道院の裏手を指した。
「地下の入口は、礼拝堂の中だけではありません。昔は遺体を運び入れるため、灰置き場から下へ降りる石段がありました」
「灰置き場?」
ニーナが眉を寄せる。
「火葬前の遺体へ石灰を振っていた場所です。臭います」
「入りたくない」
「私もです」
レオンが立ち上がりかける。
「正面から行く」
三人が同時に彼を見た。
「何だ」
ガレスが低く言う。
「今、自分で何を言ったか分かっているか」
「最短だ」
「最短で死ぬ」
「俺一人なら」
「その言葉を禁止にしろ」
ニーナが静かに言った。
「一人なら、はもう駄目」
「だが」
「カミラさんを助けに行くんでしょう」
「ああ」
「その人は、あなたが一人で死にに来たら喜ぶの?」
レオンの口が止まった。
アンナが少しだけ目を細める。
「カミラさんなら、まず怒るでしょうね」
「知っている」
「では、怒られない入り方を」
ガレスが地面に短い線を引く。
「俺が外の見張りを二人引く。ニーナとアンナは灰置き場から地下へ。レオンは俺の合図まで動くな」
「俺は何をする」
「合図まで動くな」
「役割ではない」
「一番難しい役割だ」
ニーナが頷く。
「向いてないね」
「分かっているなら別の役を」
「だから練習」
「俺は子どもか」
「今はかなり」
その時、修道院の中から男の怒鳴り声が聞こえた。
続いて、鈍い音。
誰かが殴られた音。
レオンの目が変わる。
ガレスが肩を掴む。
「まだだ」
「聞こえただろう」
「聞こえたから待つ」
「なぜ」
「今飛び込めば、敵は中の者を殺す。音は、お前を引く餌かもしれない」
レオンは歯を食いしばった。
拳が震える。
それでも動かなかった。
ニーナが小さく言う。
「良い黙り方」
「今それを言うな」
「言わないと忘れそうだから」
割れた鐘が、また鳴った。
ごん。
その音に紛れて、ガレスが森の反対側へ走った。
◇
灰置き場の入口は、半分崩れた石壁の下にあった。
アンナは膝をつき、石の隙間へ手を入れる。
「ここです」
「よく覚えてるね」
ニーナが尋ねる。
「昔、疫病記録を調べたことがあります」
「医者ってそんなこともするの?」
「医者によります」
「アンナさんは、する人?」
「してしまう人です」
「面倒な人だ」
「あなたに言われるとは」
二人で石をずらす。
中から、古い灰と湿った土の臭いが流れ出した。
ニーナは鼻を押さえる。
「うわ」
「言ったでしょう」
「言われても臭い」
石段は狭く、真っ暗だった。
アンナが先に入る。
ニーナが続く。
レオンは入口の外で待っていた。
「俺も」
「合図まで」
ニーナが振り返る。
「剣を持ってる人は、音が大きい」
「俺は静かに歩ける」
「心がうるさい」
「何だそれは」
「顔に出てる」
ニーナはそれだけ言って、地下へ消えた。
レオンは残された。
剣の柄を握る。
離す。
握る。
離す。
森の向こうで、ガレスがわざと枝を折った。
外の見張り二人が反応し、そちらへ向かう。
正面の警備が薄くなる。
まだだ。
レオンは自分に言い聞かせた。
まだ。




