第百三部 散った火を、一つの道へ束ねる話 Another Side:テオ/ルーウェン/エルナ 番号を追う者が、次に盗むべき紙を知る話
塩倉庫の奥で、テオは五人の証言を書き終えた。
エミル・ハース。
港湾荷役の老人。
家内奉公へ回されかけた少女。
鉱山補助労働へ送られる予定だった青年。
そして、契約破棄を理由に連れていかれた女性。
全員を助けたわけではない。
逃がせたのは五人だけ。
残り十一人は、まだヴェスタリアのどこかへ分けられている。
「追いますか」
エルナが尋ねた。
「追いたい」
「追えますか」
「十一人を別々に追えば、全員見失う」
ルーウェンが壁へ背を預ける。
「ようやく分かったか」
「言い方が厳しい」
「事実だ」
テオはユリオから受け取った番号表を広げた。
オーランド側の番号。
ヴェスタリア側の番号。
枝番。
行き先。
だが、この表だけでは次の変換が分からない。
カラベルへ行く者。
カランへ売られる者。
ヴェスタリア国内で働かされる者。
番号は、次の机でまた変わる。
「個々の馬車を追うのはやめる」
テオは言った。
エミルが顔を上げる。
「では、残った人たちは」
「追うために、別の紙を取る」
「別の紙?」
「中央登録局の照合台帳」
エルナが目を細める。
「そこに全員分が?」
「番号が変わるなら、どこかに対応表がある。なければ保険も契約も金の請求もできない」
「つまり」
「人を追うのではなく、番号が変わる机を押さえる」
ルーウェンが少し笑った。
「やっと獣ではなく巣を見つけに行くわけだ」
「そういうこと」
「そこは固いぞ」
「分かってる」
「兵もいる」
「分かってる」
「お前は戦えない」
「すごく分かってる」
エルナが静かに言う。
「ですが、入る方法はあります」
「何?」
「先ほど逃がした五人は、調整所から見れば紛失した資産です。必ず再登録か抹消の処理が出ます」
テオは彼女を見る。
「その処理を追えば、中央登録局の窓口へ入れる」
「はい」
「エルナ、怖いこと考えるね」
「あなたの影響です」
「それは困る」
エミルが恐る恐る言う。
「私の名前を、また使うんですか」
テオはすぐに否定しなかった。
使う必要があるかもしれない。
だから、正直に言う。
「使わせてほしい。ただし、あなたの許可を得る」
「何に」
「逃亡者ではなく、誤登録者として訂正申請を出す」
「それで中央登録局へ?」
「そう」
「また捕まりませんか」
「可能性はある」
「怖いです」
「分かっています」
エミルは番号札を見た。
裏には、さきほど自分で書いた名前がある。
エミル・ハース。
横領はしていない。
妻と息子がいる。
怖かった。
「怖いままでも、行けますか」
彼が尋ねる。
テオは頷いた。
「僕も怖い」
「商人なのに?」
「商人も怖いよ」
「そうなんですか」
「怖いから、契約書を厚くする」
エミルは少しだけ笑った。
「では、厚い契約書を作ってください」
「今回は薄い申請書で行く」
「不安です」
「僕も」
ルーウェンが呆れたように言う。
「お前たちは怖い話をしているのか、商談をしているのか」
「両方」
テオとエミルが同時に答えた。
エルナがわずかに口元を緩める。
「息は合っていますね」
「嬉しくないです」
エミルが言った。
その小さな笑いが、塩倉庫の重い空気を少しだけ薄めた。
テオは筆を取る。
目標は一つ。
中央登録局。
盗まれた名前が、番号へ変えられ、さらに別の番号へ変わる場所。
そこを押さえなければ、十一人だけでなく、これから売られる何百人も追えない。
「レイラへ送る報告を変える」
テオは言った。
「何と?」
エルナが尋ねる。
「個別救出から、照合台帳の奪取へ移る。失敗すれば、今見えている人も見失う。成功すれば、見えていない人まで追える」
「王女は何と言うかな」
ルーウェンが呟く。
テオは少し考えた。
「怒ると思う」
「なぜ」
「危険だから」
「やめるか」
「やめない」
「なら書け」
テオは頷き、紙へ書き始めた。
――追う対象を、人から台帳へ移します。
――これは人を見捨てるためではなく、見えない人まで追うためです。
――危険ですが、必要です。
最後に、少し迷って一行足した。
――怖いです。しかし進みます。
失敗も、恐怖も、消さない。
その方が、レイラには正しく届くと思った。
◇
Interlude 灰倉院
灰倉院は、森の奥にあった。
かつて疫病死者を火葬する前に安置した修道院跡で、石造りの礼拝堂だけが残っている。
その地下へ、カミラたちは運ばれていた。
イーゴルは肋骨の痛みで顔を白くし、オルヴァンは右目を半ば閉じている。
カミラの左手首は、また腫れ始めていた。
「ここで殺すつもりか」
カミラが尋ねる。
サロメは礼拝堂の祭壇に腰掛け、灰色の手袋を外していた。
「殺すだけなら、もっと簡単な場所がありました」
「では何をする」
「選んでもらいます」
サロメは三枚の死亡診断書を机へ置いた。
一枚目、イーゴル・セヴェリン。
二枚目、オルヴァン・ケルド。
三枚目、カミラ・パヴェル。
すべて空欄が残っている。
「誰が最初に死ぬかを?」
「いいえ」
サロメは微笑む。
「誰が最初に生き延びるかを」
カミラは黙って睨む。
「一人だけなら、公式には生かしてあげましょう。残り二人は移送中死亡。生き残った一人は、共同陰謀の詳細を証言する」
「断る」
「あなたはそう言うでしょう」
サロメはイーゴルとオルヴァンを見る。
「では、お二人は?」
イーゴルは唇を結ぶ。
オルヴァンが低く笑った。
「人間の宗教女は、選ばせるのが好きだな」
「選択は人間を美しくします」
「嘘をつけ。選ばせて壊すのが好きなだけだ」
サロメは楽しげに目を細めた。
「よく分かっていますね」
その時、礼拝堂の外で小さな音がした。
枝が折れる音。
兵が振り向く。
サロメも一瞬だけ視線を動かした。
カミラは、その一瞬を見逃さなかった。
誰かが近い。
レオンか。
それとも、別の追手か。
分からない。
だが、彼女は笑った。
「何ですか」
サロメが尋ねる。
「少し安心した」
「なぜ」
「選ばせる敵は、だいたい邪魔が入ると慌てる」
サロメは笑みを消した。
外の森で、また枝が鳴った。
灰倉院へ向かって、確かに誰かが近づいている。
──第百三部 了




