第百三部 散った火を、一つの道へ束ねる話 ③ 巡礼道を使った聖バルト施療院への道
聖バルト施療院へ向かう道は、街道ではなく、古い巡礼道を使った。
ガレスの判断だった。
「軍の車列は街道を通る。俺たちが同じ道を行けば、追跡ではなく追いかけっこになる」
「巡礼道なら先回りできる?」
ニーナが聞く。
「うまくいけば」
「うまくいかなければ?」
「迷う」
「先に言って」
「今言った」
レオンは剣を持っていないため、妙に落ち着かなかった。
腰が軽い。
手が空いている。
その代わり、ニーナが抱える剣が時折、彼女の膝へ当たり、そのたびに小さく文句を言う。
「これ、本当に必要?」
「必要だ」
「あなた、これに頼りすぎてない?」
「命を預ける道具だ」
「今は私が持ってる」
「だから落ち着かない」
「少しは、剣以外にも命を預ける練習をして」
レオンは何か言い返そうとして、やめた。
その沈黙をガレスが見逃さない。
「また良い黙り方か」
「お前まで評価するな」
「似てきたな」
「誰に」
ニーナが前を向いたまま言う。
「カミラさん?」
レオンは足を止めかけた。
「なぜそこでカミラが出る」
「だって、さっきからあなたが黙る時、カミラさんならどうするか考えてる顔してる」
「俺の顔は何でも言うな」
「言う」
少し風が吹いた。
木々の間から、遠くの街の煙が見える。
ニーナの声は、いつもより静かだった。
「会ったことないのに、ずっと横にいるみたい」
「……カミラのことか」
「うん」
「嫌か」
ニーナは少し考えた。
「嫌ではない」
「そうか」
「腹は立つ」
「どちらだ」
「別」
ガレスが後ろで呟く。
「女同士の話に巻き込まれる予感がする」
「黙って」
「第四条」
「便利に使うな」
その時、前方で馬の嘶きが聞こえた。
ガレスが手を上げる。
三人は道端の低木へ身を沈めた。
巡礼道の先から、一台の荷車が来る。
荷台には干し草。
その上に、布で包んだ長い箱。
御者は修道士の服を着ているが、靴が軍靴だった。
「施療院の荷車か?」
レオンが囁く。
「違う」
ガレスが答える。
「修道士は馬をあんなに急がせない」
「止める?」
「待つ」
荷車が近づく。
その時、荷台の箱の中から、鈍い音がした。
一度。
二度。
内側から叩いている。
ニーナの目が変わる。
「人がいる」
「罠かもしれん」
「生きてる」
また音がする。
三度目。
レオンはニーナを見る。
ニーナは彼の剣を抱えたまま言った。
「返す」
「いいのか」
「人が箱に入ってる」
「作戦は」
「変わった」
剣が返される。
レオンの手が柄を掴んだ瞬間、体の重心が戻る。
だが、以前のように飛び出しはしなかった。
ガレスを見る。
「どう止める」
ガレスが一瞬だけ意外そうな顔をした。
「馬を傷つけない。御者を落とす」
「了解」
「左から行け。俺は右」
「ニーナは」
「箱」
荷車が通り過ぎる瞬間、レオンとガレスが同時に飛び出した。
ガレスが馬の前へ布を投げる。
馬が驚いて止まる。
御者が手綱を引こうとした瞬間、レオンが荷台へ飛び乗り、御者の腕を押さえた。
「声を出すな」
御者は短剣を抜いた。
レオンは肩を使わず、左手だけで相手の手首を捻り、短剣を落とす。
ガレスが御者の足を払う。
男は地面へ落ちた。
ニーナは荷台へ駆け寄り、箱の縄を切る。
「開けるよ!」
中から、くぐもった声。
「早く!」
蓋が開く。
中にいたのは、アンナ・リードだった。
口に布を噛まされ、両手を縛られている。
頬は腫れ、白衣は泥で汚れていた。
ニーナが布を外す。
「アンナさん!」
「あなたは……薬箱の」
「ニーナ。息は? どこか痛む?」
「全身」
「生きてる」
「医師へ雑な診断をしないでください」
アンナは咳き込みながら、箱の縁を掴んだ。
「荷車を止めたのは、あなたたちですか」
「そう」
「なぜ」
「箱を叩いたから」
「叩いて正解でしたね」
レオンは御者を縛りながら尋ねる。
「カミラはどこだ」
アンナは顔を上げる。
レオンを見た。
ほんの一瞬で、彼が誰か理解したらしい。
「あなたが、レオン」
「ああ」
「思っていたより、疲れた顔ですね」
「よく言われる」
「カミラさんは東へ。イーゴルとオルヴァンも一緒です。ただし、聖バルト施療院には行きません」
「何?」
「施療院は囮です」
ガレスが御者を振り返る。
男は舌を噛もうとしていた。
ガレスが顎を押さえ、布を噛ませる。
「またか」
「毒は?」
ニーナが尋ねる。
「見た限りではない」
「口を見る」
「俺が?」
「当然」
ガレスは嫌そうな顔をしながら、御者の口を確認した。
「ない」
レオンはアンナへ向き直る。
「本当の行き先は」
「古い巡礼橋の先にある灰倉院」
「灰倉院?」
ガレスが眉を寄せる。
「疫病死者を一時安置していた修道院跡だ。今は使われていない」
「なぜそこへ」
アンナは苦しそうに呼吸を整えた。
「そこで、死亡診断書を作るつもりです」
ニーナの顔が強張る。
「誰の」
「全員分かもしれません」
沈黙。
風の音だけが巡礼道を抜ける。
レオンは剣を握った。
今度は誰も、すぐには止めなかった。
アンナが続ける。
「ただし、まだ死んでいません。少なくとも、私が最後に見た時は」
「なぜ箱に」
「私は署名を拒みました。別の医師を呼ぶために、私を施療院へ送ると言われました」
「殺すためか」
「おそらく、行方不明にするためです」
ニーナはアンナの縄を解きながら尋ねた。
「どうして私に教えてくれたの」
アンナはニーナを見る。
「あなたを信用したわけではありません」
「うん」
「でも、あなたは薬箱を乱暴に扱われて怒った」
「薬は高いから」
「それだけではないでしょう」
ニーナは少し黙った。
「患者がいると思った」
「だからです」
アンナは短く答えた。
「患者を見ている人なら、水の下を見に行くと思った」
それで十分だった。
味方だからではない。
同じものを見ていると思ったから。
ニーナは頷いた。
「今度は、一緒に患者を見に行く?」
「行きます」
「歩ける?」
「歩けないと言えば置いていきますか」
「担ぐ」
「では歩きます」
ガレスが御者を縛り終えた。
「行くなら今だ。施療院が囮なら、敵は俺たちがそちらへ向かうと思っている」
「灰倉院は近いか」
レオンが聞く。
「巡礼道を外れて、森の中を抜ける。馬車より徒歩の方が早い場所がある」
「案内できるか」
「ああ」
「アンナは」
「走れません」
アンナが自分で答える。
「でも、死亡診断書の書式なら分かります。偽物を見れば、誰が書いたか分かる」
「なら来てくれ」
レオンが言った。
「命令ですか」
「頼みだ」
アンナは少しだけ目を細めた。
「カミラさんが言っていたほど、馬鹿ではなさそうですね」
「何を言われていた」
「都合のよい馬鹿ではない、と」
「褒めているのか」
「医療的には不明です」
ニーナが少し笑った。
「行こう」
目的地は一つに絞られた。
聖バルト施療院ではない。
灰倉院。
カミラ、イーゴル、オルヴァン。
三人を死亡者へ変えるための場所。
レオンは剣を握り直した。
今度は、一人で走り出さなかった。
ニーナが薬箱を持ち、アンナがその横へつき、ガレスが道を読む。
四人で巡礼道を外れる。
物語はようやく、一つの道へ収束し始めていた。




