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第百三部 散った火を、一つの道へ束ねる話 ① たった二百枚だった燃え残りの紙

 燃え残った紙は、たった二百枚だった。


 ミハイル・ドレンの名を刷った紙。


 ザクセル改革派の印刷工は生きている。


 革命派文書は、彼の意思で刷られたものではない。


 工房の活字は押収され、別の者に使われた。


 それだけの内容だ。


 だが、今の彼らには、大陸を動かす大演説より、その二百枚の方が重かった。


「全部持って逃げるのは無理です」


 ヴィクトルが言った。


 製本所の裏口からは煙が流れ込み、床に散った紙の端が黒く焦げ始めている。


 印刷工たちは、紙束、活字箱、薬箱、負傷者、捕虜の死体、どれを持つべきか一瞬ごとに迷っていた。


 迷っている時間はない。


「二百枚なら持てる」


 レオンが紙束を抱えようとした。


 ニーナがその腕を叩く。


「肩」


「左で持つ」


「紙は左手だけで持てる量じゃない」


「では半分」


「半分でも重い」


「では四分の一」


「最初からそう言って」


 ヴィクトルが紙束を三つに分けた。


「一つは街へ撒く。一つはザクセル方面へ出す。一つは手元に残す」


「誰が撒く」


「子どもです」


 レオンが顔を上げた。


「駄目だ」


「青いインクの子ではありません。新聞売りの子です。いつも通りの仕事として配ります」


「危険だ」


「大人が配ればもっと危険です」


「それでも」


 ヴィクトルはレオンの目を見た。


「あなたが全部を背負う話へ戻さないでください」


 レオンは黙った。


 燃えているのは建物だけではない。


 薬種商、紙問屋、南二番街。


 敵は、こちらが守りたいものを同時に燃やしている。


 その全部へ走れば、結局どこにも間に合わない。


「……分かった」


 レオンは紙束の一つだけを取った。


「これは俺が持つ」


「使う時まで濡らさないでください」


「俺は子どもか」


「今は紙の扱いに関しては」


 ニーナが即答した。


「お前まで」


「昨日、証言書を握り潰しそうになっていた」


「見ていたのか」


「見てる」


 その言い方が妙に真剣だったので、レオンはそれ以上言い返せなかった。


 背後で梁が落ちた。


 火の粉が散る。


「撤収!」


 ヴィクトルの声で全員が動いた。


 ミハイルは印刷工二人に支えられ、セムの母と弟はガレスの後ろへつく。


 ガレスは肩に包帯を巻いたまま歩いていた。


 歩いている、というより、意地で倒れていない。


「おじさん、大丈夫?」


 セムの弟が小声で聞いた。


「おじさんではない」


「じゃあ、血のおじさん?」


「悪化した」


 ニーナが振り返る。


「喋ってる余裕があるなら歩けるね」


「その理屈は危険だ」


「歩けないなら担架」


「歩く」


 ガレスは顔をしかめながら答えた。


 レオンはその横へ並んだ。


「無理するな」


「お前に言われると腹が立つ」


「なぜだ」


「鏡を見る趣味はない」


 短い会話の間にも、追手の笛が近づいてくる。


 彼らは燃える製本所を捨て、裏路地へ出た。


 外はすでに朝の光が差している。


 その光の中で、街はひどく騒がしかった。


 火事を見に来た者。


 逃げる者。


 叫ぶ者。


 水を運ぶ者。


 そして張り紙を読む者。


 ――亡国王子、ザクセル革命派を奪還。


 ――青いインク、街を混乱へ陥れる。


 ――火事は反政府勢力の陽動か。


 事実より早く、敵の話が通りに貼られている。


 だが、次の角で、新聞売りの少年が別の紙を差し出していた。


 ――ミハイル・ドレンは生きている。


 女が足を止める。


 水桶を抱えた男が覗き込む。


 兵士が剥がそうとする。


 すると別の子どもが、向かいの壁へ同じ紙を貼った。


 一枚剥がせば、二枚貼られる。


 火事の中で、紙が広がっていく。


「ヴィクトルの仕込みか」


 レオンが呟く。


「仕込みではありません」


 ヴィクトルは外套の襟を上げた。


「彼らは金をもらえば新聞も嘘も本当も配ります。だから、本当の紙にも金を払っただけです」


「いいのか、それで」


「理想だけで紙は走りません」


 ミハイルが掠れ声で笑った。


「印刷屋らしい」


 咳が続き、ニーナが背を支える。


「笑わない」


「俺の名前が街を走ってるんだ。笑うくらい許せ」


「笑うなら息をしてから」


「厳しい」


「生きてる人には厳しくする」


 その時、通りの向こうから市警が走ってきた。


「いたぞ!」


 レオンが剣へ手を伸ばす。


 ヴィクトルが止める。


「ここでは抜かない」


「ではどうする」


「消えます」


 合図と同時に、近くの布屋の二階から大量の白布が落ちた。


 通りが一瞬、布で埋まる。


 視界が消える。


 誰かが叫ぶ。


 馬が嘶く。


 その混乱の中、青いインクの連絡員が床板を外し、地下へ続く階段を開いた。


「何本逃げ道があるんだ」


 ガレスが呆れる。


「足りません」


 ヴィクトルは短く答えた。


「今日は特に」



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