第百二部 燃える家の前で、父親の顔を思い出す話 Another Side:テオ/ルーウェン/エルナ 半日を買った者は、半日で走らされる話
テオたちが得た半日は、実際には二刻も持たなかった。
契約調整所の裏口から、十六人を乗せた小型馬車が出るのを、ルーウェンが先に見つけた。
「半日と言ったな」
「書面にはそう書かせた」
「守る気がないらしい」
「ヴェスタリアらしいね」
「感心するな」
「してない」
テオは走りながら、紙片を確認する。
十六人のうち、エミルは七二八の三。
馬車は三台。
一台目は鉱山補助労働。
二台目は港湾倉庫。
三台目は家内奉公仲介。
エミルがどの馬車にいるか、外からは見えない。
「全部止める?」
エルナが合流しながら尋ねる。
「できる?」
「馬を射れば」
「人が潰れる」
「では車輪」
ルーウェンが言う。
「街中で?」
「森ではないから馬車が多い。衝突すれば止まる」
「被害が大きい」
「ならどうする」
テオは周囲を見た。
港の通り。
荷車。
魚売り。
乾いた網。
樽。
そして、税関職員ユリオが遠くからこちらを見ている。
目が合った。
ユリオは一瞬だけ、反対側の路地を見た。
そこには、下り坂。
坂の下に、干物を積んだ荷車。
「ルーウェン、坂の荷車」
「押すのか」
「倒さず、滑らせる」
「細かい注文が多い」
「エルナ、馬の前へ網を」
「了解しました」
「僕は怒鳴る」
「得意そうだな」
「商人だからね」
三人は別々に動いた。
ルーウェンが荷車の止め木を蹴る。
干物の荷車がゆっくりと坂を下り始める。
エルナが屋根から降り、馬車の前へ干し網を広げる。
テオは通りの真ん中へ飛び出した。
「止めろ! 積荷事故だ!」
馬車の御者が怒鳴る。
「どけ!」
「保険証書はあるのか!」
「何?」
「干物商会の荷車を潰せば、港湾組合の損害補償が発生するぞ!」
御者の顔色が変わった。
人を轢くことより、荷と保険の方が効く。
馬車が急停止する。
二台目が止まる。
三台目が横へ逸れようとして、エルナの網に馬の足を取られた。
馬は転ばない。
だが、前へ進めない。
通りが混乱する。
ルーウェンが一台目の扉を開ける。
「いない」
二台目。
「女二人、老人一人」
三台目。
中に、エミルがいた。
目を見開く。
「テオさん?」
「声を出さないで」
「家族は」
「隠した」
エミルの目に涙が滲む。
「助かったんですか」
「まだ」
テオは鎖を見る。
鍵がない。
ルーウェンが剣へ手を掛ける。
「斬るか」
「斬ったら目立つ」
「もう十分目立っている」
「確かに」
その時、御者が笛を吹いた。
港の警備兵が走ってくる。
テオは一瞬迷った。
エミルだけなら、今助けられる。
だが、馬車にはほかに四人いる。
「全員降りて!」
テオが叫ぶ。
エミルが反応する。
「全員?」
「全員!」
「でも鎖が」
ルーウェンが剣を抜いた。
「目立つなと言ったな」
「前言撤回」
「遅い」
剣が鎖へ振り下ろされる。
一撃では切れない。
二撃。
三撃。
火花が散る。
警備兵が迫る。
エルナが矢を放つ。
警備兵の足元へ刺さる。
「次は当てます」
警備兵が止まる。
ルーウェンの四撃目で鎖が切れた。
四人が飛び降りる。
テオは一人ずつ背を押す。
「路地へ!」
「どこへ逃げる」
エミルが聞く。
「今考える」
「今?」
「走りながら考える」
「商人なのに?」
「計画通りに行かない時もある!」
ルーウェンが笑った。
「ようやく森らしくなったな」
「褒めてる?」
「たぶん」
彼らは路地へ走った。
半日を買ったつもりが、二刻で逃走劇へ変わった。
だが、エミルは馬車から降りた。
ほかの四人も降りた。
十六人全員ではない。
それでも、五人が番号札を引きちぎりながら走っている。
テオは自分の息が上がるのを感じながら、思った。
紙だけでは足りない。
足も必要だ。
◇
逃げ込んだのは、古い塩倉庫だった。
五人の逃亡者は、息を切らしながら床へ座り込む。
エミルは震える手で、自分の首から外した番号札を見ていた。
「これ、捨てていいんですか」
「持っていて」
テオが言う。
「なぜ」
「後で証拠になる」
「また紙ですか」
「そう」
「もう嫌です」
エミルの声が震えた。
「紙のせいで、私は横領犯になった。紙のせいで、家族に会えなくなった。紙のせいで、名前も番号にされた」
「それでも、紙が必要です」
「なぜ!」
テオは答えに詰まらなかった。
今度は、すぐに言えた。
「あなたが、自分は誰なのかを言い返すためです」
エミルは番号札を握り締める。
「私は、エミル・ハースです」
「はい」
「河港の書記です」
「はい」
「横領はしていません」
「記録します」
「妻と息子がいます」
「それも」
「怖かった」
テオは筆を止めた。
「それも書くんですか」
「あなたが望むなら」
エミルはしばらく黙り、頷いた。
「書いてください」
テオは書いた。
――怖かった。
その一文は、どの帳簿よりも人間らしかった。
◇
Interlude 旧河岸検疫所
アンナ・リードは、また患者を診ていた。
ただし今度は、自分の意思ではなかった。
目の前に座らされているのは、カミラではない。
イーゴル・セヴェリンだった。
肋骨の固定布がずれている。
移送の時に乱暴に扱われたのだろう。
「息を吸ってください」
「吸っている」
「もっと」
「肋骨が痛む」
「痛むなら痛むと言ってください」
「痛い」
「よろしい」
イーゴルは苦笑した。
「医師に褒められる歳ではない」
「年齢は関係ありません」
カミラは少し離れた椅子に縛られている。
オルヴァンもいる。
ミハイルはいない。
アンナは、それを確認して少しだけ息を吐いた。
逃げた。
少なくとも一人は、外へ出た。
「嬉しそうですね」
サロメが後ろから言った。
アンナは振り返らない。
「患者の熱が下がった時、医師は少し嬉しくなります」
「あなたは、患者が一人減った時も嬉しそうでした」
「亡くなっていないなら」
「亡くなっていないと、なぜ分かるのです」
「分かりません」
「では、希望ですね」
「医療の半分は希望です」
サロメは穏やかに笑った。
「残り半分は?」
「手間です」
カミラが小さく笑った。
「よい答えだ」
サロメはカミラを見る。
「あなたの周りには、面倒な女性が多いようですね」
「私を含めてか」
「ええ」
「光栄だ」
サロメはアンナへ紙を渡した。
「この診断書に署名を」
アンナは読む。
――拘束者イーゴル・セヴェリンは、移送中の事故により呼吸不全を起こし死亡。
まだ生きている男の死亡診断書だった。
アンナは筆を取らない。
「署名しなければ」
サロメが言う。
「あなたの病院で、薬品の横流しが発覚します」
「していません」
「発覚します」
アンナは顔を上げた。
「私を脅すなら、もっと早くそうすればよかった」
「今からでも遅くありません」
「遅いです」
「なぜ?」
アンナはイーゴルの胸へ手を当てた。
弱いが、確かに上下している。
「私はもう、この人の呼吸を確認しました」
「それが?」
「生きている患者を、死んだと書けません」
「医師の倫理ですか」
「いえ」
アンナは静かに答えた。
「私の手が覚えてしまったので」
サロメは、しばらく黙った。
やがて紙を引き戻す。
「では、別の医師を呼びましょう」
「その医師にも呼吸を確認させてください」
「面倒な人ですね」
「よく言われます」
カミラがまた笑った。
「本当に、面倒な女が多いな」
「あなたが筆頭です」
アンナが返す。
その瞬間だけ、捕らわれた部屋の空気が少しだけ軽くなった。
だが、サロメは笑っていなかった。
「面倒な者から、順に使い道を考えます」
彼女は死亡診断書を折り畳む。
「では、イーゴルではなく、別の者から始めましょう」
カミラの目が細くなる。
「誰を」
「家族の多い者です」
サロメは答えなかった。
答えなくても、部屋にいる全員が理解した。
セム。
南二番街。
若い兵士の家族。
カミラは椅子の肘を握り締めた。
「レオン」
その名は声にならなかった。
だが、口の形だけで、アンナには分かった。
どうか間に合え。
その祈りだけが、彼女たちに今できる唯一の反撃だった。
◇
東では、火事の煙が朝日に薄まり始めていた。
西では、塩倉庫の床に五人分の名前が書かれていた。
どちらも完全な勝利ではない。
ガレスは血を流し、アンナは脅され、カミラはさらに遠くへ運ばれようとしている。
テオは五人を逃がしたが、残る十一人はまだ調整所の奥にいる。
それでも、誰かの家族が一晩だけ生き延びた。
誰かの名前が、番号札の裏へ書き直された。
戦争はまだ遠い。
だが、人間を名前から引き剥がす戦いは、もう街角で始まっていた。
──第百二部 了




