第百二部 燃える家の前で、父親の顔を思い出す話 ③ 深くはなかった短剣
短剣は深くなかった。
だが、刃には油が塗られていた。
毒ではない。
傷口を腐らせるための汚れた油だ。
ニーナは水を沸かさせ、布を焼き、酒精を使った。
ガレスは耐えた。
耐えたが、顔には出た。
「痛い?」
少年が聞く。
「少し」
「嘘だ」
「なぜ分かる」
「お母さんが靴針を指に刺した時と同じ顔」
「よく見ているな」
「靴屋だから」
セムの母親が少年の頭を抱いた。
「黙っていなさい」
「でも、おじさんが嘘つく」
「嘘ではない」
ガレスが言う。
ニーナが傷を洗う。
ガレスの身体が跳ねた。
「かなり」
少年が言った。
レオンが少し笑った。
ガレスが睨む。
「笑うな」
「笑っていない」
「肩が揺れている」
「痛みで震えている」
「お前は痛んでいないだろう」
「心が」
「診療範囲外だ」
ミハイルが掠れた声で言った。
「その言い回し、流行ってるのか」
「嫌な流行だ」
ヴィクトルは死んだ襲撃者の服を調べていた。
袖の内側に、灰色の糸で小さな旗の模様が縫われている。
灰旗。
サロメ・ヴァルガの影が、ようやく形になり始めていた。
「この男は、サロメの手先です」
「サロメとは何者だ」
レオンが尋ねる。
「革命派を支援し、同時に弾圧側へ名簿を流す者」
「矛盾している」
「目的が革命ではないからです」
「では何だ」
ヴィクトルは死んだ男の袖を机へ置いた。
「中間を消すこと」
改革派。
監察官。
外部医師。
軍需の内部告発者。
職人の鑑定人。
そして、ミハイルのような印刷工。
「戦うしかない者だけを残す」
ヴィクトルが言った。
「そうすれば、国は勝手に燃える」
外の火事の鐘は、ようやく遠くなっていた。
だが、街そのものが燃え始めたような感覚は消えない。




