↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

518/557

第百二部 燃える家の前で、父親の顔を思い出す話 ② 製本所跡から運び出された三つの紙束

 製本所跡から運び出された紙束は、三つに分けられた。


 一つは市内へ撒く。


 一つはザクセル方面へ出す。


 一つは、ヴィクトルが直接隠す。


 ミハイルは別の隠れ家へ運び込まれ、熱に浮かされながら、自分の名前が刷られた紙を一枚握っていた。


「字が曲がってる」


 彼は掠れた声で言った。


 ヴィクトルが眉を上げる。


「逃走中の印刷品質としては上等です」


「行間が狭い」


「生きている人間は注文が多い」


「死んでいる人間に刷らせるよりましだろう」


 ヴィクトルは少しだけ笑った。


 レオンは入口のそばで、捕らえた襲撃者を椅子に縛っている。


 男の袖からは油の臭いがした。


 ニーナは薬箱を開き、残った薬の量を見て顔をしかめている。


「苦根、ほとんど使っちゃった」


「敵の顔にも使ったからな」


 レオンが言う。


「あなたが買って」


「なぜ俺だ」


「金貨千枚」


「その理屈はやめろ」


 捕虜の男が笑った。


「楽しそうだな」


 レオンは男を見る。


「お前はこれから楽しくない」


「拷問か」


「質問だ」


「答えると思うか」


「答える前に、袖の油の種類を調べる」


 ニーナが瓶を拾い上げる。


「これは灯油じゃない。薬種商で使う浸出油に火種を混ぜてる。薬種商の火事と同じなら、どこで調合したか分かるかも」


 男の表情が僅かに変わった。


 レオンはそれを見逃さない。


「薬種商を燃やしたのもお前たちか」


「知らない」


「紙問屋は」


「知らない」


「南二番街は」


「火事など、街ではよくある」


 レオンの左手が男の襟を掴む。


 右肩が痛む。


 構わず引き寄せた。


「子どもがいた」


「知らない」


「もう一度言ってみろ」


 男は口を閉じた。


 ニーナがレオンの手首を掴む。


「殺さない」


「殺さない」


「今の顔は殺す顔」


「便利だな、俺の顔は」


「ちゃんと見てるから」


 男が二人を見る。


「亡国王子は、女に止められなければ尋問もできないのか」


「そうだ」


 レオンは即答した。


 男が拍子抜けした顔になる。


「否定しないのか」


「止めてくれる者がいるのは、悪いことではない」


 ニーナの手の力が少しだけ緩んだ。


「……そういうことを急に言わないで」


「事実だ」


「治療中に言って」


「今は尋問中だ」


「なら後で言って」


「予約が多いな」


 ヴィクトルが活字を整理しながら言った。


「話を戻しても?」


「戻せ」


 男の顔から余裕が消えかけている。


 殺される覚悟はある。


 痛みにも備えている。


 だが、相手が怒鳴り、女に止められ、急に礼を言い、薬の油から身元を追おうとする状況には慣れていない。


「お前たちの目的は、ミハイルの紙を燃やすことだけではない」


 ヴィクトルが言う。


「紙問屋を燃やした。薬種商を燃やした。南二番街を燃やした。三つとも、こちらが次に使う可能性のある場所です」


「偶然だ」


「火元が同時すぎる」


「街は乾いている」


「雨上がりだ」


 男が黙る。


「誰に命じられた」


「知らない」


「灰色の女か」


 男の瞳が動いた。


 ほんの一瞬。


 それで十分だった。


 ヴィクトルの表情が固まる。


「サロメか」


 レオンが尋ねる。


「知っているのか」


「名だけは」


 ヴィクトルは低く答えた。


「ザクセルで、改革派も急進派も旧体制側も、同じ夜に文書を受け取ったことがあります。署名はなかった。ただ、灰色の紙片だけが残っていた」


「何者だ」


「分からない。ただ、関わった場所では、必ず中間にいる者が先に消える」


「中間?」


「改革派、監察官、職人倫理派、外部医師」


 ニーナが顔を上げる。


「アンナさん」


 捕虜の男が笑った。


「医者なら、もう遅い」


 レオンの目が変わる。


 ニーナも一歩前へ出た。


「どういう意味」


「医者は使い道がある。生かすか殺すかは、上が決める」


「上?」


「灰の旗の下だ」


 ヴィクトルが小さく呟く。


「灰旗」


 男はそれ以上話さなかった。


 代わりに、舌の下から小さな黒い粒を噛み潰した。


 ニーナが飛び込む。


「口を開けて!」


 男の顎を掴む。


 吐かせようとする。


 だが、早かった。


 男の身体が痙攣し、目が裏返る。


「毒!」


 ニーナは布を突っ込み、喉を確保する。


「助かるか」


 レオンが問う。


「分からない!」


「吐かせろ」


「やってる!」


 数分後、男の痙攣は止まった。


 呼吸も止まった。


 ニーナはしばらく胸を押し続けたが、やがて手を止めた。


 誰も何も言わなかった。


「……死ぬ準備をしていた」


 ニーナが低く言う。


「捕まったら死ぬように?」


「違う」


 ガレスの声が入口からした。


 彼は左肩に短剣を刺したまま、セムとその家族を連れて戻ってきていた。


 顔色は最悪だった。


「死ぬように持たされていたんじゃない。死ななきゃ家族を殺される」


 セムの母親が震えている。


 少年はガレスの外套を掴んだまま、離れようとしない。


 ニーナはすぐにガレスへ駆け寄った。


「何で刺さったまま歩いてるの!」


「抜くなと教わった」


「誰に」


「昔の軍医」


「その軍医は偉い。座って」


「先に子どもを」


「子どもは生きてる。あなたは出血してる」


「少しだ」


「第一条」


「署名していない」


「いいから座れ!」


 ニーナの声に、ガレスは黙って座った。


 少年が心配そうに見上げる。


「おじさん、死ぬ?」


「死なない」


「本当?」


「たぶん」


「たぶんって言った」


 ニーナが睨む。


「死なせない」


「お姉ちゃん、医者?」


「医者じゃない」


「じゃあ何?」


 レオンが横から言う。


「死なせない係だ」


 ニーナは一瞬だけレオンを見て、それからガレスの肩へ集中した。


「そう。今はそれでいい」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。