第百一部 逃げる時ほど、人は余計な名前で呼ばれる話 ④ 隠し梯子の先にあった古い製本所
隠し梯子の先は、古い製本所の地下だった。
紙の匂いと糊の匂いがする。
壁には活字棚が倒され、床には印刷途中の紙が散っていた。ここも長くは使えないらしい。
ヴィクトルはすでにいた。
机の上へ、ミハイルが持ち込んだ工房印と折れた活字が置かれる。
「本物です」
ヴィクトルは一目で言った。
「これで偽文書を刷った工房が分かる?」
ニーナが尋ねる。
「少なくとも、ミハイルの工房の活字が使われたことは証明できます」
「盗まれたことは?」
「本人が生きて証言すれば」
ミハイルは壁にもたれたまま手を上げる。
「喉が治ったらな」
「治します」
ニーナが即答した。
「怖い」
「治すって言ってる」
「言い方が怖い」
ヴィクトルはレオンへ向き直った。
「街では、あなたがザクセル革命派を奪還したことになっています」
「訂正しろ」
「訂正します。ただし、あなたの名ではなく、ミハイルの名で」
「それでいい」
「本当に?」
「俺の名前はまだ使わない」
ヴィクトルの目が僅かに変わる。
「我慢しましたね」
「子ども扱いするな」
「よくできました」
ニーナが言った。
「お前まで」
「患者だから」
「万能の言葉だな」
ヴィクトルは印刷工へ指示を飛ばす。
「見出しは短く。ミハイル・ドレンは生きている。ザクセル改革派印刷工、革命派文書への関与を否定。工房活字の押収を証言。これで刷る」
「何部?」
「今ある紙全部」
「敵に場所が割れます」
「もう割れている」
ヴィクトルは静かに言った。
「なら、使い切ってから捨てる」
地下室の空気が変わる。
印刷工たちが一斉に動く。
活字が組まれ、インクが伸ばされ、紙が積まれる。
ミハイルは自分の名前が活字へ組まれていくのを見ていた。
「変な気分だ」
「何が」
レオンが尋ねる。
「昨日まで、他人の言葉を刷っていた。今日は、自分の名前が刷られる」
「嫌か」
「怖い」
ミハイルは正直に答えた。
「でも、革命派として殺されるよりはいい」
「殺させない」
「言い切るな。怖くなる」
「なら、なるべく殺させない」
「急に弱い」
「正確にした」
ミハイルは笑い、また咳き込んだ。
ニーナが即座に背を支える。
「笑わない」
「王子が馬鹿なことを言う」
「慣れて」
「慣れるほど一緒にいたくない」
「それは同感」
レオンが抗議しかけた時、外で鐘が鳴った。
火事を知らせる鐘。
一つではない。
複数の方向から鳴っている。
印刷工が階段を駆け上がり、すぐに戻ってきた。
「市内三か所で火事!」
「どこだ」
ヴィクトルが問う。
「紙問屋、薬種商、南二番街」
セムが顔を上げる。
「南二番街?」
「家族の場所か」
ガレスが言う。
セムの顔が真っ青になる。
「母と弟がいる!」
今度は、レオンより先にガレスが動いた。
だが、脇腹を押さえて一歩で止まる。
ニーナが叫ぶ。
「ガレス!」
「行く」
「その身体で?」
「場所を知っている」
「私も行く」
レオンが立ち上がる。
「お前は印刷所を守れ」
ガレスが言う。
「なぜだ」
「今ここにある紙を燃やされたら、ミハイルを助けた意味が消える」
「セムの家族は」
「俺が行く」
「一人で行かない」
ニーナが言う。
「規則を使うな」
「使う」
「では誰が」
その時、地下室の奥から声がした。
「私が行きます」
セムが立っていた。
まだ顔色は悪い。
足も震えている。
だが、目だけは決まっていた。
「お前は休め」
ガレスが言う。
「俺の家族です」
「だから危険だ」
「だから行きます」
「兵士として言う。足手まといだ」
「弟として言う。置いていかない」
ガレスは言葉を失った。
レオンは短く言う。
「三人で行け。ガレス、セム、連絡員一人。戦わず、家族を動かすだけ」
「お前は」
「ここを守る」
ニーナがレオンを見る。
「今、すごく無理して言ったね」
「黙れ」
「褒めてる」
「褒め方が下手だ」
ガレスは頷き、セムを連れて階段へ向かった。
出る直前、振り返る。
「追ってくるなよ」
「信用しろ」
「少しずつだ」
「しつこい」
扉が閉まる。
地下室では、活字が組まれ続けていた。
外では火事の鐘が鳴っている。
敵は選ばせに来た。
ミハイルの名を守る紙か。
セムの家族か。
カミラの追跡か。
どれか一つを選べば、ほかが燃える。
レオンは階段を睨み、拳を握った。
行きたい。
全部へ走りたい。
だが、今はここに残る。
印刷機の回る音が、戦場の太鼓のように地下室へ響く。
最初の一枚が刷り上がった。
――ミハイル・ドレンは生きている。
その見出しを見た瞬間、地下室の裏口が爆ぜた。
炎ではない。
黒い煙玉。
続いて、短剣を持った三人が飛び込んでくる。
レオンは剣を抜いた。
「やっぱり退屈させてくれないな」
ニーナが薬箱を抱えて後ろへ下がる。
「言ってる場合?」
「少しは言わせろ」
一人目の刃が、刷り上がったばかりの紙束へ向かった。
レオンはその前へ踏み込む。
右肩は使えない。
左手の剣だけで、相手の手首を叩き落とす。
二人目はニーナへ向かう。
ニーナは薬箱から布袋を掴み、中身を相手の顔へ投げた。
苦根の粉だった。
男が悶絶する。
「高い薬!」
ミハイルが叫んだ。
「うるさい!」
ニーナが怒鳴る。
三人目はヴィクトルへ向かった。
ヴィクトルは逃げなかった。
机の上の活字棒を掴み、相手の刃を受ける。
金属音が鳴る。
次の瞬間、印刷工が横から版木で殴った。
「活字で受けるな!」
印刷工が怒る。
「命より高いのか」
ヴィクトルが返す。
「場合による!」
レオンは一人目を床へ倒し、刃を蹴り飛ばした。
殺さない。
だが、腕は使えないように折る。
短い悲鳴。
続いて二人目の膝を斬る。
三人目が煙へ紛れて逃げようとする。
ミハイルが、喉を押さえながら叫んだ。
「そいつの袖!」
男の袖口から、黒い油が垂れている。
印刷用ではない。
火を付けるための油。
レオンが飛ぶ。
右肩に痛みが走る。
構わず左手で男の背を掴み、床へ叩きつけた。
火打ち石が床へ転がる。
「目的は紙を燃やすことか」
ヴィクトルが男の袖を押さえた。
男は笑った。
「もう燃えている」
外の鐘がさらに激しく鳴る。
紙問屋。
薬種商。
南二番街。
そして、この製本所の裏手にも、煙が上がり始めていた。
「撤収!」
ヴィクトルが叫ぶ。
「紙は」
「持てるだけ持つ!」
印刷工たちが刷り上がった紙を束ねる。
ニーナはミハイルを支える。
レオンは気絶した襲撃者の襟を掴んだ。
「連れていくの?」
ニーナが驚く。
「誰が燃やしたか、名前を聞く」
「荷物が増えた」
「文句はあとで聞く」
「絶対聞かない顔してる」
煙が地下へ流れ込む。
ミハイルの咳が悪化する。
「まず外!」
ニーナが叫ぶ。
彼らは紙束と負傷者と捕虜を抱え、地下製本所から逃げ出した。
背後で、印刷機の一部が炎に包まれる。
ミハイル・ドレンは生きている。
その紙は刷れた。
だが、街の三か所が燃え、青いインクの拠点が一つ失われた。
小さな勝利は、すぐに大きな代金を請求してきた。




