第百一部 逃げる時ほど、人は余計な名前で呼ばれる話 ③ 悲壮にはならなかった屋根伝いの逃走
屋根伝いの逃走は、悲壮にはならなかった。
ミハイルは布で括られ、印刷工二人に担がれながら文句を言い続けている。
「揺らすな」
「喋るな」
「俺は荷物ではない」
「今は荷物だ」
「記録しておく」
「喉が治ってからな」
セムは途中で滑り、ガレスに襟首を掴まれた。
「落ちたら死ぬ」
「知ってます!」
「なら落ちるな」
「簡単に言うな!」
ニーナは薬箱を抱え、息を切らしながら走っている。
レオンはその横へ並んだ。
「持つ」
「肩」
「左で」
「私より先に落ちそう」
「ひどい」
「事実」
それでも、ニーナは薬箱の片側をレオンへ渡した。
二人で一つの箱を持って屋根を走る。
走りにくい。
息も合わない。
途中で薬箱が揺れ、苦根の袋が中で転がる。
「そっち上げすぎ!」
「こっちの屋根が低い」
「合わせて」
「無茶を言う」
「患者運ぶ時は合わせるの!」
「薬箱も患者なのか」
「患者を助ける箱!」
下の通りから市警が叫ぶ。
「止まれ!」
レオンが息を切らしながら言う。
「人気者だな」
「あなたがね」
「俺の人気は金貨千枚込みだ」
「値下がりしてほしい」
「俺もそう思う」
屋根の先で道が途切れた。
向かいの建物まで、幅は馬車一台分。
普通なら飛べる距離ではない。
印刷工が指を鳴らす。
向かいの屋根から板が渡された。
あらかじめ用意されていた逃走路。
「ヴィクトルは、屋根まで印刷するのか」
レオンが呟く。
「活字より軽いものなら、だいたい運ぶ」
印刷工が答えた。
ミハイルを先に渡す。
セム。
ニーナ。
ガレス。
最後にレオン。
板の中央まで来た時、下から弩の弦が鳴った。
矢が板へ突き刺さる。
板が割れた。
レオンの足元が落ちる。
ニーナが振り返る。
「レオン!」
レオンは落ちながら、左手で板の端を掴んだ。
右肩は使えない。
身体が空中で揺れる。
下には石畳。
ニーナが手を伸ばす。
ガレスも戻ろうとする。
「来るな!」
レオンが叫ぶ。
下から二本目の矢が構えられる。
その瞬間、向かいの通りで荷馬車が横転した。
樽が転がり、弩兵の足元へぶつかる。
馬が暴れ、市警が散る。
荷馬車の御者が叫んだ。
「すまん! 車輪が外れた!」
わざとらしすぎる声だった。
レオンは見た。
荷馬車の側面には、小さな白い羽根の印。
サレーネ船団が使う、荷の目印。
リヴィアではない。
だが、彼女の網がここまで来ている。
「……何でここに」
呟く暇はなかった。
ニーナとガレスが同時にレオンを引き上げる。
屋根へ転がった瞬間、ニーナが怒鳴った。
「噛んでないで手を伸ばして!」
「さっきは噛めと言った」
「状況が違う!」
「理不尽だ」
「生きてるから言えること!」
レオンは言い返せず、空を見上げた。
胸が痛い。
肩も痛い。
だが、落ちなかった。
下では、白羽根印の荷馬車が道を塞ぎ、追手が足止めされている。
誰かが先回りしている。
誰かが、こちらの動きを完全には知らないまま、それでも同じ女を追っている。
レオンは息を吐いた。
「ヴィクトルの手か」
印刷工が首を振る。
「知らない」
ガレスが白羽根印を見て眉を寄せる。
「お前の知り合いか」
「たぶん」
「多いな」
「俺も驚いている」
ニーナは何も言わなかった。
ただ一瞬だけ、白い羽根の印とレオンの顔を見比べた。
「また女?」
「まだ何も言っていない」
「顔が言ってる」
「俺の顔は忙しいな」
「本当に」
走るしかなかった。
屋根の向こうで、青いインクの隠し梯子が口を開けている。
彼らはそこへ飛び込んだ。




