第百一部 逃げる時ほど、人は余計な名前で呼ばれる話 ② 梁に残った古い滑車
乾燥倉庫の梁には、昔、染めた布を吊るすための滑車が残っていた。
青いインクの印刷工は、屋根裏から縄を垂らし、ミハイルを布ごと引き上げる準備を始めた。
「無理だ」
ミハイルが言う。
「喋るな。喉が裂ける」
ニーナが答える。
「いや、物理的に無理だ。俺は重い」
「意外と細いよ」
「励ましになっていない」
「じゃあ、重いけど上げる」
「もっと悪い」
ガレスが滑車を確認する。
「梁が古い」
「落ちる?」
ニーナが尋ねる。
「一人ずつなら」
「二人は?」
「落ちる」
「三人は?」
「聞くな」
最初にミハイル。
次にセム。
若い兵士はまだ足元がふらついていたが、意識は戻っている。自分が毒を飲まされた理由を聞かされても、しばらく何も言えなかった。
「俺は、死んだことにされるはずだったのか」
「今は生きている」
ニーナが言った。
「生きていても、戻れば殺される」
「だから戻らない」
「脱走兵になる」
「毒を飲ませた上官の元へ帰りたい?」
セムは黙った。
答えは顔に出ていた。
「母と弟がいる」
「場所は」
「南二番街の裏手。井戸の隣の靴修理屋」
ガレスが覚える。
「後で動かす」
「今すぐ」
「今すぐ行けば、家族ごと捕まる」
「でも」
「生きて知らせる方が先だ」
セムは歯を食いしばった。
「お前、誰だ」
「昔、同じような顔をした男を何人も見た者だ」
ガレスはそれ以上言わなかった。
最後にニーナが上がる。
レオンは下に残った。
「何してるの」
屋根の上からニーナが睨む。
「追手を引く」
「駄目」
「全員が上へ逃げたと知られたら、屋根沿いに追われる」
「だからって」
「すぐ合流する」
「信じない」
「ひどいな」
「前科が多すぎる」
ガレスが屋根上から縄を握ったまま言う。
「俺が見ている。逃げたら上から落とす」
「仲間への信頼が厚い」
「少しずつだと言った」
外で足音が増えた。
兵士が扉を蹴る。
レオンは左手で剣を抜いた。
「早く行け」
ニーナは何か言いかけ、飲み込む。
「肩」
「分かっている」
「分かってない時の顔」
「どういう顔だ」
「馬鹿な顔」
ニーナは屋根裏へ消えた。
扉が破られる。
兵士が三人、倉庫へ踏み込んだ。
「いたぞ!」
「左手の剣だ!」
レオンはわざと梁の下へ立った。
「もう少し格好いい呼び名にしてくれ」
兵士が槍を突き出す。
レオンは肩を使わず、半身でかわす。槍先を左手の剣で押さえ、踏み込みながら柄で喉を打つ。
二人目が横から来る。
床の石灰袋を蹴り上げる。
白い粉が舞い、兵士が目を押さえた。
三人目が笛を吹こうとする。
その背後へ、屋根から垂れた縄が落ちた。
ガレスが上から引く。
兵士の足へ絡んだ縄が締まり、男が派手に倒れた。
「早く上がれ!」
ガレスの声。
「落とすんじゃなかったのか」
「今は拾っている!」
レオンは縄を掴む。
右肩へ激痛が走った。
「左で!」
ニーナの声が上から飛ぶ。
「知っている!」
「知ってる人は、痛そうな顔しない!」
レオンは左腕と足だけで梁へ上がる。
途中で足場が崩れかけた。
屋根上からニーナが手を伸ばす。
レオンは一瞬迷った。
右手を出せば肩が開く。
左手は縄を握っている。
「噛んで!」
「何を!」
「袖!」
ニーナは自分の袖を差し出した。
レオンは言われた通り、袖口を歯で噛む。
ニーナが全力で引く。
ガレスも縄を引く。
レオンは屋根へ転がり上がった。
ニーナの袖は、派手に破れていた。
「……すまん」
レオンが言う。
「後で縫って」
「俺が?」
「噛み切った人が」
「緊急避難だ」
「口は動いたんだから、謝る余裕もあるね」
ガレスが立ち上がる。
「夫婦喧嘩は屋根を降りてからにしろ」
「夫婦じゃない!」
ニーナの声が大きすぎた。
下の兵士が屋根を見上げる。
「上だ!」
「今ので見つかったな」
レオンが言う。
「誰のせい?」
「ガレスだ」
「違うだろう」
三人は屋根の上を走った。




