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第百一部 逃げる時ほど、人は余計な名前で呼ばれる話 ① 夜明け前に三度死にかけた男

 ミハイル・ドレンは、夜明け前に三度死にかけた。


 一度目は咳で喉を詰まらせた時。


 二度目は熱に浮かされ、乾燥倉庫の梁から下がる布を絞首縄と勘違いして暴れた時。


 三度目は、ニーナが煎じ薬を飲ませようとした時だった。


「毒じゃない」


 ニーナは木椀を持ったまま言った。


 ミハイルは壁へ背を押しつけ、掠れた声で答える。


「毒を入れる者は、たいていそう言う」


「苦いけど毒じゃない」


「毒も苦い」


「薬も苦い」


「違いは」


「飲んで生きていれば薬。死ねば毒」


「説明が雑だ」


「今は丁寧に説明する時間がない」


 ミハイルはレオンを見る。


「この女は、本当に医療者か」


「本人は医者ではないと言い張る」


「なら、なぜ薬を持っている」


「俺も何度かそれで命を拾った」


「余計に不安だ」


 ニーナが木椀を差し出す。


「飲むの? 飲まないの?」


「脅迫か」


「選択」


「どちらを選べば生きる」


「飲む方」


「最初からそう言え」


 ミハイルは顔をしかめながら薬を飲んだ。


 次の瞬間、さらに顔を歪める。


「これは拷問だ」


「生きてるね」


「判断が早い」


 ガレスは壁際で脇腹へ布を巻かれていた。折れてはいない。だが、笑うと痛むらしい。


「笑うな」


 ニーナが言う。


「笑っていない」


「肩が揺れてる」


「痛みで震えている」


「嘘」


 レオンは入口の隙間から外を見ていた。


 乾燥倉庫の周囲にはまだ追手の気配がある。笛の音は遠ざかったが、旧検疫所から下流へ続く道には、兵士と市警が混じって動いている。


 最悪なのは、彼らがただの逃亡者として追われていないことだった。


 夜明け前から、街の壁へ新しい張り紙が貼られている。


 ――亡国王子、ザクセル革命派を奪還。


 ――逃亡中の印刷工ミハイル・ドレン、武装集団により連れ去られる。


 ――市民は、黒髪の薬師風の女、頬に傷のある男、左手で剣を使う長身の男に注意せよ。


 特徴が具体的すぎる。


「左手で剣を使う長身の男」


 ガレスが張り紙を読み上げた。


「お前だな」


「他にもいるだろう」


「黒髪の薬師風の女」


 ニーナが苦い顔をする。


「風って何」


「医者ではないという主張が通ったな」


「嬉しくない」


「頬に傷のある男」


 ガレスは自分の頬へ触れた。


「俺だけ雑だ」


「賞金首狩り風の男、と書かれなかっただけましだ」


 レオンが言う。


「それは見た目で分からん」


「顔だけで分かる」


「どういう意味だ」


「金貨千枚を見る目をしている」


「お前のせいだ」


「俺を捕まえたのはお前だ」


「捕まえられるように歩いていたのはお前だ」


「二人とも、喧嘩するなら荷物持ってから」


 ニーナはミハイルの背へ布を当て、湿らせた包帯を巻き直した。


 ミハイルは咳き込みながら笑おうとする。


「思っていた亡国王子と違う」


「どんなのを想像していた」


 レオンが尋ねる。


「もっと悲壮で、もっと格好よく、もっと静かに祖国を語る男だ」


「悪かったな」


「実物は、薬師に怒られ、賞金首狩りと口喧嘩している」


「生きた証言は大事だな。そういう話は外へ出すな」


「出してやる」


「喉を治してからにしろ」


 短い笑いが倉庫に流れた。


 次の瞬間、屋根の上で板が鳴る。


 全員の動きが止まった。


 ガレスが短剣を抜く。


 レオンが入口へ寄る。


 ニーナはミハイルの口へ布を押し当てた。咳を止めるためだ。


 天井板の隙間から、小さな紙包みが落ちてきた。


 ガレスが拾い、匂いを嗅ぐ。


「火薬ではない」


「開けるな」


 レオンが止める。


「遅い」


 ガレスはすでに開けていた。


 中には、青い糸で結ばれた活字が三つ入っていた。


 M。


 D。


 そして、折れた小さな印刷工房の印。


 ミハイルの顔色が変わる。


「俺の工房のものだ」


「誰が」


 天井の上から、低い声がした。


「ヴィクトルから」


 返事を待たず、屋根板が一枚外れ、若い印刷工が逆さまに顔を出した。


「そこの喉の死にかけがミハイル・ドレンか」


「死にかけは余計だ」


 ミハイルが掠れ声で答える。


「生きてるなら上等だ。移動するぞ」


「どこへ」


 レオンが聞く。


「ここはもう三方向から囲まれてる」


「なら四方向目へ逃げる」


「どこだ」


 印刷工はにやりと笑った。


「上だ」



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