第百部 水の下で、一人だけを助けてしまう話 Another Side:テオ/ルーウェン/エルナ 国境を越えれば、人は別の名前で呼ばれる話
ヴェスタリア自由港の税関は、朝靄の中でも灯りを消さなかった。
運河から入る船は一隻ずつ岸壁へ寄せられ、積荷、旅客、契約労働者、病人、遺体、動物、木材、鉱石に分けて記録される。
人間が荷物と同じ桟橋へ並ぶ光景を見て、ルーウェンは無言になった。
怒っている時ほど口数が減る男だと、テオはこの数日で理解していた。
エミルたち十七人を乗せた労働船は、三番桟橋へ入った。
オーランド側の書類では、彼らは契約債務者だった。
ヴェスタリア側の受理欄では、彼らは別の言葉へ変わっている。
――一時労働調整対象。
「優しくなったように見えるな」
ルーウェンが言う。
「聞こえだけはね」
テオは帽子を深く被り、岸壁の人混みへ紛れた。
エルナは少し離れた屋根の下から、護衛の配置を見ている。
十七人は鎖を外され、今度は木札を首へ掛けられた。
名前ではない。
番号。
出身国。
健康状態。
労働適性。
契約残額。
その五つだけが書かれている。
エミルの札には、オーランド、読み書き可、軽作業可、債務金貨十二枚とあった。
横領犯という言葉は消えている。
だが、無実も消えている。
「書類を見せてもらおうか」
テオは港の下級税関職員へ銀貨を一枚置いた。
男は三十代前半で、痩せた顔に寝不足の影を残していた。胸元の札には、ユリオ・カッサとある。
「正式な照会状は?」
「こちらに」
テオはグラント商会の小口輸送確認書を出した。
偽造ではない。
ただし、確認したい貨物名を空欄にしてある。
ユリオは書類を見て、テオの顔を見た。
「グラント商会」
「ええ」
「昨日から、あなたの名前が随分飛んでいます」
「悪い形で?」
「港でよい形の噂は飛びません」
「それは残念だ」
ユリオは書類を返す。
「契約労働者の名簿は見せられません」
「私は労働者ではなく、船荷の確認に来ました」
「この船に、あなたの荷はありません」
「人は荷ではないでしょう」
ユリオの手が一瞬止まる。
「そういうことを、港の窓口で言わない方がよい」
「なぜ」
「聞いている者がいる」
テオは周囲を見る。
商人。
船員。
警備兵。
帳簿を抱えた書記。
どれが監視かは分からない。
「あなたは、毎日これを受け付けているのですか」
「仕事です」
「慣れますか」
「慣れたと答えれば、あなたは私を軽蔑するでしょう」
「慣れないと答えれば?」
「では辞めろと言われる」
「どちらです」
ユリオは、番号札を付けられた十七人を見た。
その中に、咳をしている若い女がいた。
工場事故の損害を負わされた職人と同じ船に乗せられていた、雇用契約を途中で破棄したとされる女性だ。
顔色が悪い。
足元がふらついている。
警備兵が彼女の背を押す。
女は倒れかけた。
ユリオが無意識に一歩動き、すぐに止まる。
「慣れません」
小さな声だった。
「でも、辞めれば別の者が印を押すだけです」
「なら、印を押す意味は?」
「たまに、一行だけ遅らせられる」
ユリオは帳簿へ筆を入れた。
女の欄へ、検疫保留、と書き加える。
「何を」
「発熱疑いです」
「熱は?」
「これから出るかもしれません」
「医師ではないでしょう」
「税関職員は、疑いを書くことはできます」
警備兵がユリオを睨む。
「またか」
「港湾規則です」
「調整所が急いでいる」
「発熱疑いを通せば、港全体を閉じる理由になります」
警備兵は舌打ちし、女だけを列から外した。
十六人は先へ進む。
女は検疫小屋へ運ばれる。
助かったわけではない。
ただ、数時間だけ流れから外れた。
「あなたは、私たちを助けるつもりですか」
テオが尋ねる。
ユリオは帳簿から目を上げない。
「私は日付を訂正しただけです」
「日付?」
「オーランド側の出航印が一日ずれています。だから検疫保留を書けた」
「偶然ですか」
「偶然にしてください」
ユリオは帳簿の端を破り取った。
正式な写しではない。
だが、十七人の旧番号と、ヴェスタリアで付けられた新番号が並んでいる。
「落としましたよ」
ユリオは紙片を床へ滑らせた。
テオは屈み、拾う。
「なぜ」
「妹がいます」
ユリオは淡々と言った。
「契約を破った労働者として、三年前にここを通りました。私はその時、印を押しました」
テオは言葉を失う。
「助けられなかったのですか」
「助けるという考えも浮かばなかった。私は書類が揃っているかだけを見ていた」
「今は」
「今も大きくは変わりません」
ユリオは次の船の書類へ手を伸ばした。
「ただ、たまに一行だけ遅らせます」
テオは紙片を懐へ入れた。
「その一行を追います」
「追ってどうします」
「名前を戻します」
「戻したところで、人は帰りません」
「そういう人もいます」
「では、何のために」
テオは岸壁の先へ連れていかれる十六人を見た。
「帰れる人を、番号のままにしないためです」
ユリオは答えなかった。
ただ、次の書類へ印を押す時、ほんの少しだけ手が遅れた。
◇
港の外れで、エルナが紙片を確認した。
「十七人分あります」
「エミルの番号は?」
「オーランド側では三七一。ヴェスタリア側では調整対象七二八」
「番号が変わった」
「はい」
「名前は?」
「消えています」
ルーウェンが、港の奥へ消えていく十六人を見た。
「追えるのか」
「この紙があれば」
テオは答えた。
「ただし、次の国境を越えればまた番号が変わる」
「そのたびに拾うのか」
「拾う」
「紙切れを?」
「人を」
ルーウェンはしばらく黙り、それから短く言った。
「なら急げ」
「急ぐよ」
その時、検疫小屋の方で鐘が鳴った。
発熱疑いの女が、港の医師へ運ばれる合図だった。
十六人は契約調整所へ。
一人は検疫小屋へ。
テオたちは、また選択を迫られている。
「分かれる」
エルナが言った。
「あなたとルーウェンは十六人を追ってください。私は検疫小屋を見ます」
「一人で?」
「一人の方が目立ちません」
「危険です」
「あなたも危険です」
ルーウェンが鼻を鳴らす。
「全員でまとまっている方が、かえって何もできん」
テオは短く考え、頷いた。
「三刻後、古い水門前で合流」
「遅れた場合は」
「半刻待つ。それ以上は、追える方を追う」
エルナは頷き、港の人混みへ消えた。
テオは、見失いそうになる十六人を追って歩き出す。
助けられた者はいない。
ただ、一人だけ少し遅れた。
十七人の名前は消えた。
ただ、番号の対応表を一枚拾えた。
それが勝利なのか敗北なのか、テオにはまだ分からない。
だが、レイラへ送る次の報告には、こう書くつもりだった。
――名前は、一度では消えません。
――ただし、国境を越えるたび、別の名前へ変えられます。
――こちらも、そのたびに追います。
◇
夜明けの東で、レオンは肩の包帯を巻き直されていた。
同じ時刻、西の港で、テオは十六人の背を追っていた。
一人を救えば、残りを置いていく。
全員を追えば、目の前の一人を失う。
正しい答えは、どこにも用意されていなかった。
それでも彼らは、選び続けるしかない。
国家は、人間を番号に変える。
革命は、証言を陰謀に変える。
商人は、債務を鎖に変える。
そして彼らは、その一つ一つへ、名前を戻そうとしていた。
勝ったわけではない。
カミラは遠ざかり、アンナは捕らえられ、四人の証言は敵の物語へ組み込まれつつある。
それでも、ミハイル・ドレンは生きている。
ユリオ・カッサが写した番号表も、テオの懐にある。
消されかけた名前が、二つだけ、まだ紙の上で息をしていた。
──第百部 了




