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第百部 水の下で、一人だけを助けてしまう話 ④ 床へ倒れたアンナと、少しだけ下がった熱

 アンナ・リードは、床へ倒れたまま左頬の痛みを感じていた。


 殴られたのは、いつ以来だろう。


 市民病院で酔った患者に腕を掴まれたことはある。怒鳴られたことは数え切れない。だが、官吏に殴られたのは初めてだった。


「医師として、患者の搬送を確認すると言っただけです」


 アンナは血の混じった唾を飲み込んだ。


「遺体搬送に医師は不要だ」


 軍医が言う。


「まだ死んでいません」


「書類上は、感染疑いの死亡者だ」


「書類は呼吸しません」


「医師が余計な哲学を語るな」


 アンナは立ち上がろうとしたが、兵士に肩を押さえられる。


 部屋の奥では、カミラが椅子に縛られていた。


 意識はある。


 口元に血が滲んでいるが、目はまだ折れていない。


 隣にはオルヴァン。


 さらに奥に、兵士の服を着せられたイーゴルが立たされている。


 ミハイルだけがいない。


「一人抜けたな」


 カミラが言った。


「あなたが逃がしたのではありません」


 灰衣の女が答える。


 サロメ・ヴァルガ。


 アンナは、その名前をまだ知らない。


 だが、彼女の声だけは覚えていた。


 家族の多い者から調べろ、と命じた声。


「逃げた者は、逃げた者として使えます」


「何を言っている」


 カミラが睨む。


「亡国王子が、ザクセル印刷工を奪還した。よい見出しです」


「ミハイルは改革派だ。イタリカの手先ではない」


「読者は区別しません」


「させないのだろう」


「ええ」


 サロメは認めた。


「だから、あなたが必要です。あなたが否定するほど、物語は複雑になり、民衆は簡単な方を選ぶ」


 アンナはカミラを見る。


 カミラは笑っていた。


「何がおかしいのです」


「お前は、私のことをよく見ているが、あの男のことはまだ分かっていない」


「レオン王子?」


「彼は馬鹿だ」


 サロメの眉が微かに動く。


「それは知っています」


「違う。お前が思うほど、都合のよい馬鹿ではない」


 カミラは椅子の背へ身体を預け、痛む左手首を動かさないようにしながら言った。


「ミハイルを助けたなら、次はミハイルを道具にしようとする者を怒る」


「怒れば、こちらの望む行動を取ります」


「どうかな」


 カミラは血の味を飲み込み、笑みを消した。


「彼の周りには、最近うるさい女がいるらしい」


 アンナは、薬箱を守ろうとしていた黒髪の女を思い出した。


 ニーナ。


 姓は聞けなかった。


「なるほど」


 サロメは少しだけ興味を示した。


「では、その女も探しましょう」


「やめておけ」


「なぜ」


「治療者を敵に回すと、死に方を選べなくなる」


 サロメは初めて、声を立てずに笑った。


「面白い忠告です」


「経験則だ」


 カミラの視線が一瞬だけアンナへ向く。


 アンナは小さく息を吸った。


 自分は彼女たちの仲間ではない。


 政治も革命も、亡国王子も知らない。


 だが、患者を遺体として扱う書類へ署名した覚えはない。


 その一点だけは、まだ手放していない。



 ◇


 夜明け前、ミハイルの熱は少しだけ下がった。


 毒を飲まされた若い兵は、名前を言う前に目を覚ました。自分がどこにいるか分からず暴れかけたが、ニーナが水を飲ませ、レオンが距離を取って剣を見せないようにしたため、やがて呼吸だけは落ち着いた。


「名前は」


 ニーナが尋ねる。


 若い兵は唇を動かした。


「セム」


「所属は」


「旧検疫所……臨時警備」


「なぜ毒を飲まされたの」


「知らない。水を……」


 そこで、セムは怯えたように自分の手を見る。


「俺は、遺体役だったのか」


「分からない」


 ニーナが答える。


「分からないけど、生きている」


 セムは顔を覆った。


「家族がいる。母と弟が」


 レオン、ガレス、ニーナが同時に目を合わせた。


 サロメが選ぶとしたら、家族の多い者。


 それは四人の囚人だけではない。


 兵士も、医師も、書記も、誰でも同じだ。


 ヴィクトルの連絡員が、乾燥倉庫へ滑り込んできた。


「印刷所へ戻れません。周辺に見張りが出ています」


「ヴィクトルは」


「別の拠点へ移動中です。ミハイルの救出はすでに街へ流されています」


 レオンが顔を上げる。


「もう?」


「見出しは、亡国王子がザクセル革命派を奪還、です」


 ミハイルが目を閉じた。


「俺は……革命派ではない」


「分かっている」


 ヴィクトルの連絡員は、次の紙を渡した。


「それと、検疫所から出たもう一つの移送列は、東門を通過しました」


「カミラは」


「確認できません」


「行き先は」


「東部臨時軍政庁方面。ただし、途中で軍の本隊へ合流する可能性があります」


 レオンは紙を握り潰しそうになり、途中でやめた。


 記録は潰すな。


 誰に言われたわけでもないのに、そう思った。


「追う」


「追えます」


 ガレスが言った。


「だが今すぐではない」


「なぜ」


「ミハイル、セム、俺の脇腹、ニーナの薬箱、全部隠す場所が必要だ。ヴィクトルの別拠点へ運ばなければ、追う前に捕まる」


「カミラが遠ざかる」


「知っている」


「なら」


「追うために、生きて残す」


 ガレスの声は低かった。


「今ここで全部捨てて走れば、また一人増えるだけだ」


 レオンは言葉を失った。


 ニーナが静かに続ける。


「カミラさんなら、怒るよ」


「知っている」


「知ってるなら、座って」


「なぜ」


「あなたの肩も診る」


「今は」


「今だから」


 ニーナは手を差し出した。


「今動ける人を、次に動けなくしない」


 レオンは数秒だけ抵抗し、結局、壁際へ座った。


 ニーナが包帯を外す。


 肩の傷は、排水路の騒ぎで少し開いていた。


「黙ってた?」


「痛かった」


「どれくらい」


「少し」


 ニーナが傷の周囲を押す。


「かなり」


「よし」


「よし、ではない」


「正直でよろしい」


 ミハイルが弱々しく笑い、ガレスも口元を歪めた。


 レオンは不機嫌そうにそっぽを向く。


 それでも立ち上がらなかった。


 朝の光が、壊れた屋根から細く差し込む。


 カミラは遠ざかった。


 アンナは捕らえられた。


 イーゴルとオルヴァンも、敵の手の中にある。


 ミハイルを救ったことは、すでに敵の物語へ組み込まれた。


 それでも、ミハイルは生きている。


 セムも生きている。


 生きている者は、自分の名前をまだ訂正できる。


 レオンは握り締めていた紙を開き、しわを伸ばした。


「ヴィクトルへ伝えろ」


 連絡員が頷く。


「何を」


「俺の名前は、まだ使うな」


「では」


「先に、ミハイル・ドレンの名前を出す」


 ミハイルが目を開ける。


「俺の?」


「お前が許すなら」


「何を書く」


 レオンは答えた。


「ザクセル改革派の印刷工ミハイル・ドレンは、イタリカ革命派ではない。国境襲撃の文書は、彼の工房から奪われた活字で刷られた」


「証拠は?」


 ヴィクトルの連絡員が尋ねる。


「本人が生きている」


「それだけでは弱いです」


「だから生かす」


 レオンはミハイルを見る。


「喉を治せ。話せるようになれ。お前の名前は、お前が訂正しろ」


 ミハイルはしばらくレオンを見ていた。


「お前は、噂ほど馬鹿ではないのか」


「噂の種類による」


「女のために国を裏切った馬鹿だと聞いた」


 ニーナの手が止まる。


 ガレスが少し笑う。


 レオンは眉を寄せた。


「そこは否定しにくい」


「否定しなさい」


 ニーナが即座に言う。


「いや、国は裏切っていない」


「女のため、の方は?」


「治療中に聞くな」


「精神状態の確認」


「それはもう聞いた」


 乾燥倉庫に、短い笑いが広がった。


 痛みと血と敗北の中にある、あまりにも小さな笑いだった。


 だが、その小ささこそが、今の彼らには必要だった。



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