第百部 水の下で、一人だけを助けてしまう話 ③ 高い梁が残る乾燥倉庫
乾燥倉庫は、布を干すための高い梁が残っていた。
屋根の一部は抜け、月明かりが斜めに差し込んでいる。床には古い藁と色の抜けた布切れが散らばり、壁際には壊れた木枠が積まれていた。
ニーナはミハイルを横にせず、壁へ背を預けさせた。
「横にしないのか」
レオンが尋ねる。
「喉が腫れてる。横にすると息が詰まる」
ニーナは薬箱を開く。
「水」
ガレスが革袋を投げる。
「飲ませるな」
「分かってる。口を湿らせるだけ」
ニーナは布を湿らせ、ミハイルの唇へ当てた。
次に毒を飲まされた若い兵を見る。
口の臭いを嗅ぐ。
「眠り草じゃない。苦い。舌が痺れる」
「吐かせるか」
「意識が弱い。無理に吐かせたら詰まる」
「助かるか」
「分からない」
「そればかりだな」
「分からないことを分かるとは言わない」
ニーナは低く言い返し、兵の身体を横向きに固定した。
レオンは入口で外を見張っていたが、何度も奥を振り返る。
「落ち着かないなら外で見張れ」
ガレスが言う。
「見張っている」
「三呼吸ごとに振り返る見張りがあるか」
「ある」
「ない」
ミハイルが、掠れた声で笑おうとした。
笑えず、咳になる。
ニーナが背を支える。
「喋らない」
「……ヴィクトルは」
「知ってるの?」
ミハイルは小さく頷いた。
「読本……刷った」
「ヴィクトルは無事だ」
「なら……言え」
「何を」
「活字は……盗まれたんじゃない」
レオンが近づく。
「どういう意味だ」
「工房ごと……押収された。俺の弟子が……刷らされた」
「誰に」
「灰色の女」
サロメ。
レオンはその名をまだ知らない。
だが、カミラの偽自白を整えた者と同じ気配がした。
「カミラはどこへ行った」
「俺たちは……分けられた。監察官と……ドワーフは、上へ。計数官は……兵の服」
「上とは」
「煙突……古い乾燥塔……屋根から橋へ」
ガレスが顔を上げる。
「上の渡り廊下か」
「検疫所から染物工房の乾燥塔へ、昔の荷上げ橋がある。地図にはなかった」
「なぜ知っている」
「外から見た時、煙突が二本あるのに煙が一本からしか出ていなかった。もう一本は通路か」
レオンは拳を握った。
「戻る」
「遅い」
ミハイルが言った。
「もう……出た」
「見たのか」
「聞いた。女医が……止めてた」
ニーナが顔を上げる。
「アンナさん?」
「医者は……殺すための診断書じゃないと……」
ミハイルは苦しそうに息を吸う。
「殴られた」
ニーナの顔色が変わった。
「アンナさんは?」
「連れて……」
言葉が途切れた。
意識が落ちかける。
ニーナは慌てず、ミハイルの顎を支え、気道を確保する。
「今は寝ていい。死なない寝方だけして」
ミハイルは、ほんの少しだけ頷いた。
レオンは立ち上がる。
ガレスが前に立った。
「どけ」
「戻るなら一人だ」
「では一人で戻る」
「それを止めるために俺たちがいる」
「カミラが上へ運ばれた」
「だから今戻っても下は封鎖、上は罠だ」
「アンナも捕まった」
「医師一人助けるために、ミハイルを捨てるか」
レオンの視線が揺れる。
「その言い方は卑怯だ」
「卑怯な状況だ」
ニーナは手を止めずに言った。
「レオン」
「何だ」
「今ここで動いたら、ミハイルが死ぬ」
「俺がいなくても」
「あなたの手がいる。肩じゃなく、左手」
「何に」
「この兵を押さえて。痙攣が来る」
若い兵の身体が跳ねた。
レオンは反射的に膝をつき、左腕で兵の肩を押さえる。
「強すぎないで。肩が外れる」
「分かっている」
「分かってない力だよ」
「こうか」
「そう」
ニーナは兵の口へ布を噛ませ、舌を噛まないよう固定した。
レオンは毒に震える若い兵を押さえながら、乾燥倉庫の入り口を見る。
今走れば、まだ間に合うかもしれない。
間に合わないかもしれない。
走れば、ここにいる二人は死ぬかもしれない。
カミラなら何と言うか。
答えは分かっている。
私一人を追うために、目の前の患者を殺すのか。
耳の奥で、その声がした。
レオンは歯を食いしばった。
「くそ」
「生きてる人を押さえる時に、そういう言葉を言わない」
ニーナが短く叱る。
「すまん」
若い兵の震えが少しずつ弱まる。
ニーナが薬を調合する。
ガレスは入口の隙間から外を見ていた。
「追手が来る」
「数は」
「四。いや、六」
「戦えるか」
「俺はな」
「俺も」
レオンが言う。
「あなたは患者を押さえてる」
ニーナが即座に止めた。
「今は離せない」
「敵が来る」
「ガレスがいる」
「一人では」
「信用するんでしょう」
レオンはガレスを見る。
ガレスは短剣を抜き、脇腹を片手で押さえながら笑った。
「急に信用するなと言ったが、今はしておけ」
「面倒な男だ」
「お互い様だ」
乾燥倉庫の扉が蹴り開けられる。
最初に入ってきた兵の喉へ、ガレスの短剣の柄が入った。殺さず、声だけを潰す。
二人目は槍を突き出す。
ガレスは横へ滑り、槍を壁へ刺させたまま肘を折る。
三人目が剣を抜く。
レオンは動けない。
若い兵の身体を押さえたまま、目だけで剣筋を追う。
ガレスが間に合わない。
ニーナが薬瓶を投げた。
剣を持つ兵の額へ当たり、瓶が割れる。
「高い薬!」
投げた本人が叫んだ。
兵が怯んだ瞬間、ガレスの膝が腹へ入る。
「後で請求しろ」
「誰に」
「レオンに」
「なぜ俺だ」
レオンが言う。
「金貨千枚分の男だから」
こんな時にまで言うな、と言いかけて、レオンは少しだけ息を吐いた。
残りの兵は、外から笛を鳴らし撤退した。
深追いはできない。
ガレスも脇腹を押さえ、壁へ肩を預ける。
「折れてないと言ったな」
ニーナが睨む。
「今ので折れた可能性はある」
「馬鹿」
「患者が増えたな」
「笑えない」
ミハイルは薄く目を開けた。
「……青いインクは、まだ冗談を言うのか」
「これは青いインクじゃない」
レオンが答える。
「では、何だ」
レオンはニーナとガレスを見た。
うまい名前が出てこない。
「患者と、元賞金首狩りと、亡国の王子」
ニーナが代わりに言う。
「最悪だな」
ミハイルが掠れた声で言った。
「助かった気がしない」
「生きてるなら十分」
「厳しい女だ」
「よく言われる」
ミハイルは、また咳き込んだ。
その目から、少しだけ警戒が消えていた。




