第百部 水の下で、一人だけを助けてしまう話 ② 検疫所下流の染料捨て場
旧河岸検疫所の下流には、染料捨て場があった。
昼間なら赤や藍の薄い筋が水面へ広がり、布を染めた後の濁った水が川へ落ちていく場所だ。夜になると、腐った藻と石灰と古い染料の臭いが混ざり、近づく者はほとんどいない。
排水口は、石壁の下に半分沈んでいた。
大人一人が屈んで通れるほどの高さしかない。
口の前には鉄格子が下ろされているが、鍵は新しい。古い施設へ最近取り付けたものだ。
ガレスは膝をつき、泥へ触れた。
「新しい轍がある」
「荷車?」
ニーナが息を整えながら尋ねる。
「小さい。遺体搬送用ではない。箱車だ」
「四人は乗らない」
「ここで乗せ替える」
レオンは鉄格子を見た。
「鍵を壊す」
「音が出る」
「では、どうする」
「鍵を壊さず開ける」
ガレスは懐から細い鉄片を取り出した。
「賞金首狩りの持ち物とは思えないな」
「元兵士より前に、逃げる兵を捕まえる仕事をしていた」
「それも賞金首狩りでは」
「細かい男だ」
鉄片が鍵穴へ入り、数度動く。
錠が小さく鳴った。
レオンは剣へ手を掛けたまま、排水路の奥を見る。暗く、湿っていて、奥から水の流れる低い音がする。
その音に混じって、何かが擦れる音が聞こえた。
「来る」
ガレスが囁く。
三人は石壁の影へ身を沈めた。
排水路の奥から、鉄製の台車が現れた。
低い車輪へ板を渡し、その上に布包みが四つ積まれている。疫病患者の遺体を運ぶ時に使う白灰色の布で包まれ、口元には石灰を詰めた袋が結びつけられていた。
台車を押しているのは二人の兵。
後ろにもう一人。
その後ろに、白衣の袖だけが見えた。
アンナではない。
別の軍医だ。
レオンの身体が前へ出かける。
ニーナが腕を掴んだ。
違う、と小さく首を振る。
布包みのうち、一つだけ呼吸の動きがない。
いや、違う。
呼吸がないのではなく、布の下に人の形がない。
レオンは目を凝らした。
四つのうち二つは軽い。
台車が段差を越えた時、布の端が浮き、中から藁の束が見えた。
囮。
ガレスが指を二本立てる。
本物は最大二人。
カミラがその中にいるかは分からない。
先頭の兵が鉄格子へ手を掛ける。
鍵を開けるため、腰を屈めた。
その瞬間、ガレスが背後から飛び出した。
左手で兵の口を塞ぎ、右肘で喉を打つ。音を出す前に兵が崩れる。
二人目が振り返る。
レオンが踏み込んだ。
右肩は使えない。
左手の剣で相手の腕を受け流し、柄で鼻を打つ。骨が鳴り、兵が後ろへ倒れた。
三人目が笛を咥える。
ニーナが足元の石灰袋を蹴った。
白い粉が舞い、兵の目と口へ入る。
咳き込んだところへ、ガレスの短剣の柄が側頭部へ入った。
軍医が叫びかける。
レオンが剣先を喉元へ向けた。
「声を出すな」
軍医は両手を上げた。
ニーナは布包みへ駆け寄る。
一つ目。
藁。
二つ目。
石を詰めた袋。
三つ目。
男の身体。
喉へ巻かれた布が赤く湿り、呼吸が浅い。
「ミハイル?」
ニーナが名前を呼ぶ。
男の瞼が微かに震えた。
「……誰だ」
「薬を持ってきた人」
「分からん」
「分からなくていい。息をして」
四つ目の布を開く。
そこにも人がいた。
だが、カミラではなかった。
若い兵士。
口の端に泡が付き、瞳孔が開きかけている。
ニーナが首筋へ指を当てる。
「毒」
「誰だ」
レオンが尋ねる。
「分からない。でも死ぬ」
「助けられるか」
「分からない」
「では、ミハイルを運ぶ」
「両方」
「無理だ」
「両方!」
ニーナの声が鋭く跳ねた。
ガレスが周囲を見る。
「時間がない。笛が鳴らなくても、戻りが遅れれば気付く」
「なら担げ」
レオンが言った。
「俺がミハイルを持つ」
「肩」
「左で持つ」
「馬鹿」
ニーナが即座に言う。
「今は言い争わない」
「じゃあ従って。ミハイルは喉が危ない。上体を起こして運ぶ。毒の兵は横向き。吐いたら詰まる」
「俺が兵を担ぐ」
ガレスが言った。
「脇腹」
「折れていない」
「あとで診る」
「予約が増えるな」
レオンはミハイルの上体を支えた。
ミハイルは半ば意識を失いながら、レオンの外套を掴む。
「監察官は」
「カミラはどこだ」
「右……ではない」
「何?」
「右へ曲がるな……上……煙の上……」
咳が言葉を切った。
血の混じった唾が布へ滲む。
ニーナが口元を拭う。
「喋らないで」
「四人……では、ない」
「どういう意味だ」
レオンが聞く。
ミハイルは必死に息を吸う。
「五人目……」
その先は、咳に潰れた。
遠くで笛が鳴る。
一度。
二度。
施設の方ではない。
下流の橋の上からだ。
「見つかった」
ガレスが毒を飲まされた若い兵を肩へ担ぎ上げる。
「走るぞ」
「軍医は」
ニーナが見る。
喉元へ剣を向けられた軍医は、腰を抜かしている。
「置いていく」
レオンが言った。
「喋るよ」
「喋る前に戻る」
「どこへ」
「青いインクの印刷所は使えない」
ガレスが即座に答えた。
「ミハイルを連れ込めば、場所が割れる」
「では」
「水車小屋の上流に、染物工房の古い乾燥倉庫がある」
「安全か」
「安全ではない。だが近い」
安全な場所はない。
それでも、今は息を続けられる場所へ運ぶしかなかった。
三人は二人の負傷者を抱え、染料捨て場の泥の中を走った。




