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第百部 水の下で、一人だけを助けてしまう話 ① 四人分の診療票と、出なかった部屋

 アンナ・リードは、四人分の診療票へ署名したあと、すぐには部屋を出なかった。


 診療鞄の中を整理するふりをしながら、隣室へ運ばれていく紙の音を聞いていた。石造りの壁は厚く、普通の声なら届かない。だが、扉の下にわずかな隙間があり、机を引く音、紙を重ねる音、誰かが歩く靴音だけは、床を伝って診療室へ入ってくる。


「最も家族の多い者から調べてください」


 女の声がした。


 穏やかで、急ぐ様子もなく、まるで薬の配分を指示するような声だった。


 アンナは包帯を畳む手を止めた。


 家族の多い者。


 患者の状態ではない。


 病歴でも、移送の可否でもない。


 誰を脅せば、ほかの三人が動くかを調べている。


「医師の診断書は」


 別の声が尋ねた。


「使います。医師が移送に条件を付けたなら、医師の署名で封鎖できます。封鎖すれば、誰も中を見ません」


「死亡処理は」


「必要になれば、疫病疑いで十分でしょう。黄色い旗は、兵より強い」


 アンナの指先が、包帯の端を強く押さえた。


 自分が書いたのは、患者を守るための診断書だった。


 それを、患者を見せないための封鎖に使う。


 移送に条件を付ければ、少しでも丁寧に運ばれるかもしれないと思った。だが、相手はその条件さえ、外部の目を遮るために使うつもりでいる。


 医師は人を救う仕事だと、アンナは若い頃から信じていたわけではない。


 夜中に呼ばれて行けば、殴られた女は「階段から落ちた」と言う。


 酒場の喧嘩で腹を刺された男は、相手の名前を言わない。


 兵士は、自分がやった拷問を「尋問中の事故」と呼ぶ。


 市民病院の医師は、いつも正義の側に立てるわけではなかった。


 それでも、自分の筆跡を使って、生きている患者を遺体にすることだけは、医師として受け入れられない。


 扉が開いた。


 国家保安局の監視役が、診療室を覗き込む。


「まだいたのか」


「鞄をまとめています」


「診療票は提出済みだな」


「写しが必要です」


「不要だ」


「患者の継続診療には必要です」


「こちらで管理する」


「患者が死亡した場合、私の診断と処置の根拠を確認できなくなります」


 監視役は冷たい目でアンナを見た。


「死亡する予定はない」


「医師に向かって、予定という言葉を使わないでください」


「口が過ぎる」


「診断書を口で書く医師はいません」


 監視役が近づく前に、外から兵士が呼んだ。


 医療倉庫から薬箱が届いた、と。


 アンナは診療鞄を閉じた。


 薬箱を確認するために外へ出ると、灰色の上衣を着た若い女が門番と揉めていた。


「中身を乱暴に扱わないで」


「薬種商の手伝いが口を出すな」


「その箱は喉を傷めた人と、肋骨を痛めた人と、鎮静薬を飲まされた人と、煙を吸った人のためのものです。逆さにしたら薬粉が混ざる」


 アンナは足を止めた。


 四人の症状を知っている。


 少なくとも、薬箱の荷札と中身を見て、患者の数と状態を読んでいる。


 門番が女の腕を掴む。


「下がれ」


「薬箱から手を離して」


 女は兵士の手を外した。


 手首を捻る角度は拙いが、患者の腕を押さえる時のように、相手の骨の動きを見ている。


 戦う者の手ではない。


 人の身体を扱う者の手だった。


「その箱をこちらへ」


 アンナが声を掛けた。


 女が振り向く。


 黒い瞳に警戒がある。


 同時に、薬箱へ向ける視線には苛立ちと心配があった。


「中を確認します」


 アンナは言った。


「柳皮と苦根は同じ袋に入れないで」


 女は即座に答えた。


「湿気で苦根が固まるから」


「喉の炎症がある患者へ、粉のまま飲ませますか」


「飲ませない。煎じて冷まして、少しずつ」


「肋骨にひびがある患者を、平らな板へ固定して運びますか」


「短距離なら。長いなら揺れを減らす布を追加する」


「鎮静薬を飲まされた患者は?」


「追加で眠らせない。水の臭いを確認する。吐かせるなら意識がある時だけ」


 アンナは薬箱の蓋を閉めた。


 味方かどうかは分からない。


 だが、この女は患者を見ている。


 少なくとも、遺体を運ぶために薬箱を持ってきたわけではない。


「名前は」


 アンナが小さく尋ねる。


「ニーナ」


「姓は」


「今は必要?」


「不要です」


 アンナは荷札の端へ視線を落とし、指で記号をなぞった。


 丸の中へ縦線が二本。


 右下に欠け。


 一度。


 二度。


 ニーナは目を細める。


 アンナは兵士へ聞こえる声で言った。


「この薬箱は中へ入れます。あなたは外で待ってください」


 そして、薬箱を受け取る直前、ニーナの耳元へごく短く告げた。


「黄色い旗が下りる前。水の下」


 それ以上は言わなかった。


 誰を助けてほしいとも、どこへ行けとも言わない。


 自分は彼女を助けたのではない。


 患者を遺体として運ぶための書類に、自分の署名を使われることを拒んだだけだ。


 そう言い聞かせなければ、足が震えそうだった。



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