第九十九部 四人の囚人を、一つの陰謀へ仕立てる話 Another Side:テオ/ルーウェン/エルナ 一人を助ければ、十七人を置いていく話
エミル・ハースは、警備詰所にはいなかった。
連行された日の夜、横領による損害賠償を理由に「契約債務者」として処理され、河港から出る矯正労働船へ移されていた。
「裁判は?」
エルナが尋ねる。
「開かれていない」
テオは河運事務所から買い取った出航票を広げた。
「横領額を本人が弁済できない場合、指定事業所で労働して返済する。そういう契約へ署名したことになっている」
「本人が?」
「署名はある」
「偽物か」
「おそらく。ただし、公証人の印は本物だ」
ルーウェンは河面を見る。
夜霧の向こうに、平たい労働船の灯りが見える。
「追いつける」
「小舟なら」
「なら行くぞ」
「エミル一人ではない」
テオは出航票の裏を見せた。
契約債務者、十七名。
エミルのほかに、
宿代を払えなかった旅人
工場事故の損害を負わされた職人
雇用契約を途中で破棄した女性
逃亡労働者として登録された男
親の借金を相続させられた青年
が乗せられている。
「全員連れ出せばよい」
ルーウェンが言う。
「船員と警備は二十人。武装した護衛船が一艘」
「斬る」
「ここで騒ぎを起こせば、エミルの妻と息子の隠れ家が割れる」
「では、見送るのか」
「追う」
「ヴェスタリアまで?」
「出航票の目的地は、ヴェスタリア自由港の契約調整所だ」
テオは地図を開く。
「十七人の名前が、国境を越えたあと何へ変わるのか確認する」
「人を助けるために紙を追うと言ったな」
「ああ」
「いま目の前に人がいる」
「分かっている!」
テオの声が夜の河岸へ響き、すぐに低くなる。
「分かっているよ」
ルーウェンは黙った。
昨日、テオはエミルを助けられなかった。
今日も、船から連れ出せない。
正しい判断をしたからといって、苦しくなくなるわけではない。
エルナが船を見ながら言う。
「一人だけなら、救出できる可能性があります」
「エミルだけ?」
「はい」
「それはしない」
テオは即答した。
「なぜです」
「僕に助けを求めたから、彼だけを選ぶことになる」
「知っている人を優先するのは、間違いですか」
「間違いとは言わない」
テオは十七人の名簿を見る。
「でも、それをすれば、残り十六人は、僕たちに知られていないから置いていかれたことになる」
ルーウェンが鼻を鳴らす。
「王女と似たことを言う」
「誰が」
「お前が」
「そうかな」
「面倒なところだけ似てきた」
エルナが、わずかに口元を緩めた。
「よい影響では?」
「面倒だと言った」
ルーウェンは船から目を離さない。
「だが、追うなら最後まで追え」
「もちろんだ」
「途中で紙だけ持って帰るな」
テオはルーウェンを見る。
「君も来るのか」
「数に入れたのはお前だ」
「勝手に決めるなと言っていたのに」
「行かないとは言っていない」
エルナが続ける。
「私も同行します」
「森は?」
「レイラ殿下には報告を送りました。三日ごとに連絡を返します」
「危険です」
「あなた一人へ任せる方が危険です」
「レイラ殿下と同じことを言う」
「正しいので」
船が動き始める。
十七人を乗せた労働船は、ヴェスタリアへ向かう運河へ入った。
テオたちは別の小型商船を手配する。
助けることはできなかった。
だが、見失うこともしなかった。
◇
労働船の最下層で、エミルは手首を鎖へつながれていた。
隣には、名前を知らない男がいる。
「河港の書記だろう」
男が言った。
「違う」
「新聞に出ていた」
「横領はしていない」
「皆そう言う」
エミルは返す言葉を失った。
あの新聞を、ここにいる者まで読んでいる。
「家族は」
男が尋ねる。
「分からない」
「逃げた方がいい」
「何?」
「家族がいるなら、あんたの署名を取るために使われる」
「もう署名は取られた」
意識が朦朧としていた時に、何枚かの紙へ指を押し付けられた。
何が書かれていたかは分からない。
男は乾いた声で笑った。
「なら、次は家族の署名だ」
船の上で鐘が鳴る。
国境検査へ入る合図。
エミルは暗い天井を見る。
昨日まで、自分は帳簿を書く人間だった。
今日からは、自分自身が帳簿の一行になっている。
◇
シルヴァスの保護集落へ、テオの報告が届いたのは翌朝だった。
レイラは、フィン・アレドの名がオーランドで使われていたという一文を二度読んだ。
次に、双頭の鹿。
旧グラニア王国の印。
最後に、助けを求めた書記を守れなかったという告白。
「グラニア王が生きていると、テオは考えているのですね」
リューリックは、レイラの隣で書面を読んだ。
「はい」
「まだ確定ではございません」
「分かっています」
レイラの声は平静だった。
だが、紙を持つ指へ力が入っている。
「グラニア王を、覚えておられますか」
「少しだけ」
レイラは十三歳の頃の記憶を探した。
旧連合会議の夜。
大広間。
父ロダン公爵の隣で、長い食卓を囲んだ王たち。
グラニア王は、子どもだったレイラへ甘い菓子を渡しながら、父へ言った。
――あなたは正しい。だが、正しすぎる者は国を滅ぼす。
父は笑わなかった。
「父上を、愚直だと言った人です」
「はい」
「リューリックは、何を覚えていますか」
返事がない。
レイラが横を見る。
リューリックの手が、僅かに震えていた。
剣を握る時にも乱れない手だった。
「リューリック」
「申し訳ございません」
「謝らないでください」
レイラは彼の手へ触れた。
リューリックはすぐに平静を取り戻そうとしたが、レイラは離さなかった。
「何があったのですか」
「連合軍が敗れた日、グラニア軍だけが、予定より半日早く北門から撤退いたしました」
「命令があったのですか」
「連合本営の印が押された撤退命令が届きました。しかし、本営はその命令を出しておりませんでした」
「偽造?」
「当時は、帝国の工作と判断されました」
「グラニア王が作った可能性があるのですね」
「証拠はございません」
リューリックの声は、いつもの丁寧さを保っている。
だからこそ、内側の怒りが分かった。
「あの撤退で、リュカリオン軍の左翼が開きました」
レイラは、兄レオンが敗れ、捕らえられた日のことを思う。
「兄上の部隊が孤立した原因の一つ?」
「はい」
短い返事だった。
レイラは手を強く握った。
「怒っていますか」
「私には、怒りを申し上げる資格が」
「あります」
「殿下」
「私へ痛みを隠さないよう言ったのは、あなたです」
「それとこれは」
「同じです」
レイラは彼の目を見る。
「私も怒っています。父上のこと。兄上のこと。亡くなった人たちのこと。そして、フィンの名前が使われたこと」
「はい」
「だから、あなたも隠さないでください」
リューリックは、しばらく答えなかった。
やがて手の力を抜き、レイラの指を包む。
「殺したいほどに、怒っております」
初めて、言葉になった。
レイラは怯えなかった。
「分かりました」
「お止めにならないのですか」
「今は止めません」
「今は?」
「会った時に、何をするかは一緒に決めます」
リューリックの目が僅かに揺れる。
命令ではない。
一緒に決める。
その言葉を、レイラは意識して選んだ。
「承知いたしました」
戸口から、子どもの声がした。
「レイラ?」
セドが立っている。
手には、フィンの名を書いた小さな木札があった。
「その紙に、フィンのことが書いてあるの?」
レイラは迷った。
隠せば、子どもを守れるかもしれない。
だが、あとで別の形で知れば、また名前を奪われる。
「はい」
「何て?」
レイラは膝を折り、セドと目の高さを合わせた。
「フィンの名前が、遠い国で別の人を運ぶために使われました」
「フィンは死んだのに?」
「だから使われました。本人が違うと言えないと思われたのです」
セドは木札を握る。
「じゃあ、ここに書いたのは偽物?」
「いいえ」
レイラは木札へ触れた。
「ここにある名前が本物です」
「遠い国の紙は?」
「誰かが盗んだ名前です」
「取り返せる?」
レイラは、すぐに約束しなかった。
「取り返す方法を探します」
「テオが?」
「テオたちが。そして、私たちも」
セドは考え込み、木札を胸へ抱えた。
「じゃあ、もう一枚書く」
「なぜですか」
「一枚盗まれても、もう一枚あればいい」
レイラは息を詰めた。
以前決めたことを、子どもは自分の言葉で理解している。
「そうですね」
セドは走って外へ出ていった。
リューリックが、その背中を見る。
「強い子でございますね」
「強くさせたくはありませんでした」
「はい」
「ですが、強くなったことを否定もしたくありません」
レイラはテオへの返事を書き始めた。
――エミル・ハースの家族を守ってください。
――十七人の名前を、全員記録してください。
――グラニア王について、確証が得られるまで公表しないでください。
最後に一行を足す。
――失敗を隠さず書いてくれたことを、責めません。次に何をするかを教えてください。
リューリックが読む。
「殿下は、テオ殿を信用しておられますね」
「はい」
「紙を持たせすぎるなと仰っていたのに」
「だから、失敗を書かせます」
「なるほど」
「あなたにも同じです」
「何がでございましょう」
「怒りを隠させません」
リューリックは、僅かに困った顔をした。
「殿下は、以前より厳しくなられました」
「誰の影響でしょうか」
「テオ殿かと」
「あなたです」
レイラが答えると、リューリックは言葉を失った。
その反応が少し可笑しくて、レイラは笑った。
怒りも、恐怖も、わずかな照れも、全部同じ朝の中にあった。
◇
Interlude ヴェルシャイン王国
王都の白石宮では、第一王女エレオノーラが偽自白書を三種類並べていた。
イタリカ国内向け。
グランデル帝国向け。
ヴェルシャイン王国向け。
本文は同じ。
見出しと前書きだけが異なる。
「王国向けだけ、レオン・ヴァン・リュカリオンを被害者として描いています」
外交書記官が言った。
「帝国向けでは反乱者。イタリカ向けでは革命政府転覆の共犯です」
「王国へ、保護させたいのでしょう」
エレオノーラは紙を持ち上げ、明かりへ透かした。
二十九歳。
淡い褐色の髪を後ろへまとめ、王族らしい宝石より、書類の端を揃えるための銀製文鎮を好む女性だった。
「罠だと?」
「保護を宣言すれば、帝国は王国が反乱を支援したと非難する。無視すれば、亡国王子を帝国へ見捨てたと国内の反帝国派が騒ぐ」
「本人は本当に生きているのでしょうか」
「生きていなければ、ここまで名前を使う価値がない」
エレオノーラは王国向けの見出しを指で叩いた。
「誰かが、私たちにレオン王子を欲しがらせようとしている」
「欲しくないのですか」
「欲しいわ」
答えは早かった。
「旧リュカリオン王家の生存者は、帝国支配下の旧ノルダリオン領を動かせる。王国が保護すれば、小国の独立を守るという大義も得られる」
「では、保護を宣言しますか」
「しない」
「なぜです」
「本人の意思を確認せず王国の旗を着せれば、帝国がしたことと何が違うの」
書記官は答えない。
「ただし、帝国より先に見つけます」
「矛盾していませんか」
「政治は、矛盾を抱えたまま動く仕事でしょう」
エレオノーラは別の地図を広げた。
リヴェン。
ブリエン。
リンデン。
アルムロイト。
イタリカへ続く東方交易路。
「公には動かない。ブリエンの商人、リヴェンの野戦病院、リンデン周辺の街道へ照会を出して」
「帝国に知られます」
「知られない照会だけを使いなさい」
「アルムロイトは?」
「帝国領内の辺境伯へ、王国から直接手を伸ばせば戦争になる」
エレオノーラは少し考える。
「シーロの海運商人を経由させます」
「サレーネ船団ですか」
「名前は出さない」
書記官が一礼する。
「レオン王子を見つけた場合は、どうします」
エレオノーラは偽自白書を畳んだ。
「まず、自分の言葉で話させる」
「王国への協力を拒んだら?」
「その時に考えるわ」
「捕らえますか」
「帝国より先に見つけることと、帝国と同じことをするのは別です」
そう言いながらも、エレオノーラ自身、自分がどこまでその原則を守れるかは分からなかった。
王国の安全。
小国の独立。
帝国への対抗。
亡国王子の意思。
すべてが一致するとは限らない。
「もう一人」
エレオノーラが言った。
「レイラ・ヴァン・リュカリオンについても探して」
「王女も生きていると?」
「偽自白書には出ていない」
「それが理由ですか」
「兄だけを使う者は、妹の存在を知らないか、隠している」
エレオノーラは大陸西部へ目を向けた。
「どちらにしても、調べる価値はある」
帝国はレオンを殺さず捕らえようとしている。
王国はレオンを保護という名の政治資産へ変えようとしている。
カランは兄妹の名を汚し、グラニア王を正統君主として立てようとしている。
まだ互いの生存を知らない兄妹を巡り、大国たちはすでに動き始めていた。
◇
東では、四人の囚人が、一つの陰謀へ縫い合わされようとしていた。
西では、十七人の債務者が、一隻の船で別の国へ送られていた。
帝国と王国は、亡国王子をどちらが先に見つけるか競い始めた。
そして旧河岸検疫所の下流では、四人を乗せた影が、封鎖の煙へ紛れて動き出そうとしている。
レオンたちはまだ知らない。
自分たちが追っているのは、移送車ではない。
敵が次に何を信じさせたいか、その物語そのものだった。
──第九十九部 了




