第百一部 逃げる時ほど、人は余計な名前で呼ばれる話 Another Side:テオ/ルーウェン/エルナ 港で笑えば、追われていると分かる話
ヴェスタリア自由港の契約調整所は、見た目だけは清潔だった。
白い壁。
磨かれた床。
受付の花瓶。
そして、番号札を首から下げた十六人。
彼らは長椅子へ座らされ、順番に呼ばれる。
名前ではなく番号で。
「七二八」
エミル・ハースが顔を上げる。
だが、立ち上がる前に、隣の男が腕を掴んだ。
「お前じゃない。番号は七二八の二」
「何?」
「お前は七二八の三」
「いつ変わった」
「さっきだ」
番号札には、小さな枝番が足されていた。
エミルは、自分が自分の番号すら分からなくなっていることに気付いた。
少し離れた壁際で、テオは帽子を目深に被ったまま、それを見ていた。
「枝番か」
ルーウェンが隣で呟く。
「国境を越えた時点で番号が変わり、施設へ入ったらさらに分けられる」
「虫みたいだな」
「虫でも巣は覚えている」
テオは受付の台帳へ目を走らせる。
十六人は三つの行き先へ分けられていた。
鉱山補助労働。
港湾倉庫。
家内奉公仲介。
エミルは港湾倉庫。
読み書きができる者として、帳簿係へ回される。
「また帳簿か」
ルーウェンが言う。
「彼にとっては罰だ」
「助けるか」
「今すぐ全員は無理だ」
「聞き飽きた」
「僕も言い飽きた」
その時、受付の奥で短い悲鳴が上がった。
発熱疑いで外された女性が、検疫小屋から調整所へ運び込まれてきたのだ。
支えているのはエルナだった。
白い布を頭からかぶり、港の手伝い女に見せかけている。
彼女はテオの横を通る一瞬、囁いた。
「医師が買われています」
「女性は」
「熱ではありません。殴られている」
「誰に」
「雇用主側の男。契約破棄を認めさせるためです」
「助けられる?」
「一人なら」
テオは十六人を見る。
一人なら助けられる。
また同じ問いだった。
その時、ルーウェンが笑った。
低く、短い笑い。
テオが驚いて見る。
「何?」
「また顔が紙になっている」
「紙?」
「薄くて、破れそうだ」
「今、詩的な悪口を言った?」
「事実だ」
ルーウェンは調整所の窓の外を顎で示した。
「十六人を今助けられないなら、せめて一人を助けて、十六人を追える印を付けろ」
「どうやって」
「森なら、鹿を追う時に傷を付けず匂いを付ける」
「ここは森じゃない」
「港も獣臭い」
テオは一瞬だけ考え、顔を上げた。
「エルナ、女性を倒して」
「何ですか」
「演技で」
「先に言ってください」
エルナは発熱疑いの女性を支えながら、わざと床へ膝をつかせた。
女性が苦しげに呻く。
周囲がざわめく。
テオは即座に受付へ駆け寄った。
「感染疑いの者を調整所へ入れたのですか!」
声を大きくする。
港の役人、警備、商人、契約仲介人が一斉に振り向いた。
「私はグラント商会の輸送責任者です。この建物へ入った者全員の契約日を一日ずらしてください。感染確認前の契約は保険会社が受け取りません」
受付の男が青ざめる。
「感染ではない」
「では、診断書を」
「医師が」
「買われた医師の診断書ですか?」
わざと聞こえる声で言う。
空気が変わった。
買われた医師。
港では珍しい話ではない。
だからこそ、全員が反応した。
「名誉毀損だ」
奥から太った医師が出てくる。
テオは笑った。
「では、別の医師を呼びましょう。ここには中立の税関医がいるはずです」
「必要ない」
「必要です。感染疑いがあるなら港の問題。暴行なら契約の問題。どちらにしても、この十六人の移送は一時停止ですね」
「誰が決める」
「保険会社が」
その言葉が一番効いた。
仲介人たちが互いに顔を見合わせる。
契約者が病気か暴行を受けているか不明なまま移送すれば、事故時の保険が下りない。
人道では動かない者たちが、金で止まった。
「半日だけです」
受付の男が渋々言う。
「契約を半日保留します」
「書面で」
「必要ない」
「必要です」
テオはにこりと笑う。
「書面がなければ、私はこの建物に感染疑い者が入ったと新聞へ流します」
ルーウェンが小声で言う。
「商人らしい脅しだ」
「今は褒め言葉として受け取るよ」
書類が作られる。
十六人の移送は半日止まった。
発熱疑いの女性は、別医師が来るまで検疫小屋へ戻される。
エルナが付き添う。
テオは半日分の時間を買った。
金貨ではなく、相手の金勘定で。
「半日で何をする」
ルーウェンが尋ねる。
「番号札を写す。行き先を調べる。エミルへ接触する」
「全部か」
「全部」
「無茶だな」
「王女と似てきたんだろう」
「面倒なところだけな」
テオは笑った。
久しぶりに、自分でも驚くくらい自然に笑った。
その瞬間、受付の奥にいた男がこちらを見た。
笑ったことで、顔を覚えられた。
男はすぐに目を逸らしたが、遅い。
カロ・ディーノの手の者か。
グラニア王の連絡員か。
分からない。
「ルーウェン」
「分かっている」
「何が」
「お前が笑うと目立つ」
「そこではなく」
「奥の男だろう」
ルーウェンの手が剣へ近づく。
「追うか?」
「追わない」
「なぜ」
「今追えば、十六人が動く」
「またか」
「まただ」
男は人混みへ消えた。
テオは追わない。
追えない。
半日を得た代わりに、敵へ顔を覚えられた。
小さな勝利には、また代金が付いてくる。
◇
Interlude カラドリン山岳王国
山腹の鍛造街では、昼でも火が沈まなかった。
炉は赤く、槌は鳴り、鋼は水へ沈められるたび白い蒸気を上げる。
ダリウス・ケルンは、その熱の中で一滴も汗をかいていなかった。
彼は職人ではない。
商人でも、役人でも、僧侶でもない。
だが、どの扉も彼の前では開く。
「出荷停止を求める声が増えています」
工房組合の長が言った。
「ザクセルで使われた大型弩の件か」
「我々の鋳印が使われています」
「偽造だ」
「偽造でも、民衆は紋を見ます」
「なら、もっと大きく本物を売ればよい」
組合長は言葉を失った。
ダリウスは工房の奥で組まれている大型弩の台座へ触れた。
「小さな偽物で信用を落とされるなら、本物の品質を戦場で示す。単純な話です」
「戦場が増えれば、職人も死にます」
「戦場がなくなれば、職人は飢えます」
「あなたは、我々を戦争へ依存させたいのですか」
「依存ではありません」
ダリウスは微笑んだ。
「適性です」
机へ契約書が並べられる。
イタリカ向け。
ザクセル旧体制側へ流れる商会向け。
帝国の代理商人向け。
王国の同盟国向け。
どれも正式には中立を破らない。
どれも、戦争を長くする。
「署名を」
ダリウスが言う。
組合長は筆を取らない。
「これは国を守る契約ではない」
「国を食わせる契約です」
「同じことではない」
「違いにこだわる者から、先に飢えます」
組合長の背後で、若い職人たちがこちらを見ていた。
仕事が欲しい者。
戦争を嫌う者。
家族を食わせたい者。
自分の鋼が人を殺すことを考えないようにしている者。
誰も完全な悪人ではない。
だからこそ、契約書は強かった。
ダリウスの指には、黒鉄の指輪がある。
内側に刻まれた小さな聖句は、火の明かりで一瞬だけ見えた。
――鋼は、迷う者の骨を正す。
彼は第六位ほど派手な戦争を好まない。
しかし、戦争を止めれば国が飢える構造を作ることにかけては、誰よりも忍耐強かった。
組合長は筆を取った。
署名の一画目が、震えていた。
◇
東の街では、ミハイルの名前を刷った紙が炎の中から運び出された。
西の港では、十六人の移送が半日だけ止まった。
カラドリンの山では、また一枚、武器の契約書に署名がされた。
誰も大きく勝ってはいない。
むしろ、勝つたびに敵の手が増えていく。
だが、走らなければ何も残らない。
レオンは燃える製本所を背に、紙束を抱えたニーナを見た。
「重いか」
「重い」
「持つ」
「肩」
「左で」
「半分だけ」
彼女は紙束の半分を渡した。
二人で抱えると、少しだけ軽くなった。
それだけのことが、今は妙に救いだった。
──第百一部 了




