第九十九部 四人の囚人を、一つの陰謀へ仕立てる話 ① 健康診断という名目の連行
移送前の健康診断という名目で、カミラは隣の棟へ連れ出された。
両手を前で拘束され、左手首には包帯の上から革帯を巻かれている。後ろ手に縛れば炎症が悪化すると女医が診断書へ書いたため、軍保安局も渋々従ったらしい。
廊下には窓がなかった。
一定の間隔で油灯が置かれ、湿った石壁には白い石灰が塗られている。ところどころ染料のような黒ずみが残っていることから、以前は布か皮を洗う施設だったのだろう。
遠くで水音がする。
河岸に近い。
昨日まで聞こえなかった鐘の音も、今日は壁を通して微かに届いた。
カミラは歩数を数える。
右へ十三歩。
階段を七段。
左へ二十一歩。
鉄扉を二枚。
三枚目の扉が開くと、広い洗濯室へ出た。
床には排水溝が走り、壁際には使われなくなった大釜が並んでいる。中央には四脚の椅子が、互いの手が届かない距離で置かれていた。
カミラ以外に、男が三人いた。
一人目は五十歳前後の痩せた男で、右の肋骨へ幅広の布を巻かれている。短く刈った灰色の髪と、姿勢だけは軍人のものだったが、指先には長年筆を持った者の硬い胼胝がある。
二人目は三十代の男。
喉を傷めているらしく、首へ布を巻き、息をするたび乾いた音を立てていた。服装はザクセルの都市労働者に多い短い上衣だが、袖口に印刷用の黒い油が染み込んでいる。
三人目は、背は低いが肩幅の広いドワーフだった。
髭の一部が焼け、右目の周囲が腫れている。両手の爪には黒い金属粉が入り込み、拘束されていても目だけは鋭かった。
「全員揃いましたね」
昨日の女医が診療鞄を机へ置いた。
名はまだ知らない。
彼女のほかに、軍保安局の兵士が二人、国家保安局の監視役が一人いる。
「一人ずつ診るのではないのか」
灰色の髪の男が尋ねた。
「移送前の確認項目が共通しています」
「互いの顔を見せる必要はない」
「私は決めていません」
女医は無愛想に答え、最初の診療票を開いた。
「管理番号四一七」
灰色の髪の男が顔を上げる。
「名前で呼べ」
「記録には番号しかありません」
「イーゴル・セヴェリンだ」
男は監視役を睨んだ。
「イタリカ東部軍需局、元計数官。軍の給金と補給を二十七年数えた。番号になるために働いたわけではない」
「元、ではないでしょう」
カミラが言った。
イーゴルが彼女を見る。
「何だ」
「罷免命令を受けたのか」
「拘束前には受けていない」
「なら、軍需局計数官だ」
「細かい女だな」
「監察官なので」
カミラの肩書を聞き、三人の表情がそれぞれ変わった。
イーゴルは警戒。
喉を傷めた男は敵意。
ドワーフは値踏みするような目を向ける。
「カミラ・パヴェルか」
イーゴルが言った。
「そうだ」
「お前の監察で、軍需倉庫が三つ閉じた」
「横流しをしていたからな」
「そのせいで、前線への食料が一月遅れた」
「横流しを止めたせいではない。横流しをしていた者が帳簿を燃やしたからだ」
「結果は同じだ」
「違う。原因を間違えれば、次も同じことが起こる」
イーゴルの口元が歪んだ。
女医が肋骨の布を外す。
「話すと痛むなら黙ってください」
「この女へ言え」
「私は痛くない」
「そういう意味ではない」
女医は指で肋骨を確かめ、イーゴルが息を詰めた位置を記録した。
「二本にひびが入っている可能性があります。移送には固定が必要です」
「馬車か」
「私へ聞かないでください」
「何も知らされていないのか」
「医師は患者の身体だけを見ればよい、と言われています」
カミラが口を挟む。
「身体だけを見ても、移送には道と時間が必要だ」
「あなたは診察を受ける側です」
「それは昨日聞いた」
「では、覚えていてください」
女医は二人目の診療票を取った。
「管理番号四二一」
喉を傷めた男は、掠れた声で答える。
「ミハイル・ドレン」
「職業は」
「印刷工」
国家保安局の監視役が訂正する。
「ザクセル反政府組織の宣伝担当」
ミハイルの顔が強張った。
「違う」
「革命文書を印刷した」
「労働組合と市議会改革派の新聞だ。イタリカの党歌など刷っていない」
「関税所の襲撃現場で、同じ活字が使われた文書が発見された」
「同じ工房の活字を盗まれたんだ!」
声を張った瞬間、喉が引きつり、ミハイルは激しく咳き込んだ。
女医が水差しへ手を伸ばす。
ミハイルは水を見た途端、身体を引いた。
「飲まない」
「薬は入っていません」
「どうして分かる」
「私が汲みました」
「ここへ来る前は?」
女医の動きが止まる。
カミラが言った。
「飲む前に臭いを確かめろ。苦みがあれば吐け」
ミハイルは彼女を見る。
「お前も飲まされたのか」
「ああ」
「監察官なのに?」
「監察官だからだろう」
女医は水を自分の口へ含み、飲み込んだ。
「これでよいですか」
ミハイルは迷ったあと、少量だけ口へ含んだ。
喉を湿らせ、ようやく呼吸が落ち着く。
「俺たちを同じ部屋へ入れたのは、顔を覚えさせるためか」
ミハイルが尋ねた。
「何のために」
イーゴルが言う。
「共同犯にするためだ」
カミラは三人を順番に見た。
イタリカ軍需局の計数官。
ザクセル改革派の印刷工。
カラドリンのドワーフ。
そしてイタリカ監察官。
四人を一つの馬車へ乗せれば、国境襲撃と武器横流しを結ぶ「外国勢力の陰謀団」が完成する。
監視役は何も言わない。
その沈黙だけで、推測が外れていないと分かった。
女医が三人目の診療票を開く。
「管理番号四二八」
ドワーフは応じない。
「名前は」
「番号で呼びたいのだろう」
「私は名前の欄を埋めたいのです」
「記録にないと言ったではないか」
「本人申告として残します」
ドワーフは腫れた右目で女医を見上げた。
「オルヴァン・ケルド。カラドリン商会連合認定、鋳印鑑定人」
監視役が言う。
「武器密輸仲介人」
「俺は武器を売っていない」
オルヴァンの低い声が洗濯室へ響く。
「鋼の出所を調べただけだ」
「ザクセル襲撃に使われた大型弩を鑑定した」
「あれは四年前の廃棄品ではない。新しい鋼へ古い工房印を打ち直してある」
「誰が作った」
「それを聞かれて、答えなかったからここにいる」
「答えられなかったのでは?」
監視役の言葉に、オルヴァンの鼻が鳴った。
「俺たちの鋳印を真似るなら、せめて火の温度くらい合わせろ。打ち直した箇所だけ結晶が崩れている。目の悪い人間には分からんだろうがな」
「製造元は」
「カラドリン国内とは限らない」
「なら、どこだ」
「鑑定記録を返せ。紙へ書いてある」
「記録は押収した」
「読める者はいたか」
監視役は答えなかった。
オルヴァンは満足したように鼻を鳴らす。
「紙を奪えば知識まで奪えると思ったか」
カミラは、四人の役割を頭の中で並べた。
イーゴルは、軍の輸入と配給を知る。
ミハイルは、ザクセルの印刷網と、襲撃現場の偽文書を知る。
オルヴァンは、武器が偽装されたことを証明できる。
カミラは、それらを国家保安と軍、党の国外工作へつなげられる。
一人ずつでは断片。
四人を並べれば、国境事件の真相へ近づく。
だから同じ場所へ集めた。
証言を照合するためではない。
互いに顔を見せ、「共謀していた」とするために。
「お前たち」
カミラが低い声で言った。
「今日ここで、何を話したか覚えておけ」
イーゴルが眉を寄せる。
「何だと」
「あとで、私たちは以前から知り合いだったとされる」
「会ったことはない」
「事実は問題ではない」
ミハイルが偽自白書を思い出したように顔を歪める。
「紙が先に出る」
「ああ」
「では、何をすればいい」
「話を一つにまとめるな」
オルヴァンが片眉を上げた。
「普通は、証言を揃えるものではないのか」
「無実の者が綺麗に同じ話をすれば、事前に打ち合わせたとされる。私たちは、それぞれが知っている範囲だけを話す」
「矛盾すれば嘘だと言われる」
イーゴルが言う。
「完全に一致すれば共同謀議だと言われる」
「なら、どうしろと」
「自分が見たものだけを守れ」
カミラは三人を見る。
「知らないことを埋めようとするな。相手の言葉を借りるな。分からない時は分からないと言え」
「それで助かるのか」
ミハイルの問いに、カミラは答えなかった。
助かる保証はない。
それでも、国家が用意した一つの物語へ、自分から収まるよりはましだった。
「移送先で、共同自白を取るつもりだろう」
イーゴルが言う。
「おそらく」
「拒めば」
「一人ずつ別の理由で死ぬ」
「受ければ」
「四つの国が戦う理由になる」
洗濯室が静かになった。
女医は診療票へ筆を走らせ続けている。
監視役は止めない。
むしろ、この会話自体を記録している可能性が高い。
「医師」
カミラが呼んだ。
「今度は何ですか」
「四人とも、同じ日に移送可能と書くのか」
「現状では、全員に条件が必要です」
「条件は」
「あなたは医療担当者の同行と鎮静薬禁止。イーゴルは肋骨固定と長時間の振動回避。ミハイルは喉の炎症と発熱の経過観察。オルヴァンは眼窩周囲の腫れと煙による呼吸障害の確認」
「一台の馬車では条件を満たせないな」
「私はそう書きます」
監視役が初めて女医へ向き直った。
「移送を妨害するつもりか」
「四人を一台へ詰め込めば、一人は途中で呼吸困難を起こし、一人は肋骨を悪化させ、一人は薬物の影響を判断できず、一人は視力を失う可能性があります」
「可能性の話だ」
「医療は可能性を記録する仕事です」
「命令は移送可能かどうかだ」
「では、不可能と書きます」
監視役の目が細くなる。
「名前は」
カミラが尋ねた。
女医は深く息を吐いた。
「今度は、なぜ必要です」
「この人が、あとで診断書を書いていないことにされるからだ」
女医はしばらく黙った。
「アンナ・リード」
「所属は」
「中央市民病院」
軍人でも党員でもない。
外部から呼ばれた医師だった。
「覚えた」
カミラが言う。
「忘れてください」
「無理だ」
「なぜ」
「今日ここで、自分の名前を使った人間だからだ」
アンナは答えず、最後の診療票へ署名した。




