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第九十八部 偽物は、本物より先に国境を越える話 Another Side:テオ/ルーウェン/エルナ 助けを求めた男が、横領犯へ書き換えられる話

 河港書記の名前は、エミル・ハースだった。


 妻と幼い息子は、警備詰所の前で朝から待っていた。


「面会はできません」


 窓口の役人が繰り返す。


「昨日までは、帳簿係だったんです」


 妻は両手で小さな荷物を抱えている。


 中には着替えと、固く焼いたパンが入っていた。


「急に横領なんてする人ではありません」


「本人が認めた」


「会わせてください」


「取調べ中です」


「どこにいるんですか」


「答えられません」


「せめて、このパンだけでも」


「受け取れない」


 役人は窓を閉めた。


 妻はその場へ立ち尽くした。


 息子が母親の裾を引く。


「お父さん、帰ってくる?」


「帰ってくるわ」


 答えた声は震えていた。


 少し離れた路地から、その様子をテオたちは見ていた。


「助けないのか」


 ルーウェンが尋ねる。


「ここで声を掛ければ、家族まで監視対象になる」


「もうなっている」


 エルナが屋根の上を見る。


「正面の靴磨き。向かいの果物売り。二人とも先ほどから客を見ていません」


「では、なおさら今は近づけない」


 テオは帽子を深く被った。


「宿へ戻る」


「家族を置いて?」


「先に監視を外す」


「どうやって」


「商人らしく」


 一刻後、グラント商会の荷馬車が三台、警備詰所前の通りへ入った。


 一台目は樽を落とし、道を塞いだ。


 二台目の馬が驚いて暴れ、果物屋の台へ突っ込む。


 三台目から降りた商会員たちが、弁償、荷の回収、馬の制止で通りを埋めた。


 混乱の中、エルナが書記の妻と息子へ近づく。


「御主人の件で、お話があります」


 妻の顔が強張る。


「誰ですか」


「昨日、御主人が助けを求めた相手の仲間です」


「夫は何を」


「ここでは話せません」


 エルナは市場側の細道を指した。


「五分後、青い布を掛けた荷車が通ります。乗るかどうかは、あなたが決めてください」


「逃げろと?」


「残れば、御主人の罪を認めさせるために使われる可能性があります」


 妻は息子を見る。


「夫を置いていけません」


「置いていくのではありません。助けるために、先に捕まらないでください」


 エルナはそれ以上説得せず、混乱へ戻った。


 五分後。


 青い布の荷車が細道を通る。


 妻と息子は、その荷台へ乗った。



 ◇


 隠れ家へ移ったあと、テオは妻へ、倉庫で起きたことを説明した。


 フィン・アレドの名。


 死亡者名義の保険。


 双頭の鹿。


 エミルが告発しようとして連行されたこと。


「夫は、横領していません」


「分かっています」


「なら、すぐに新聞へ」


「その前に、相手が記事を出しました」


 テオは朝刊を机へ置いた。


 ――グラント商会会長、河港倉庫へ圧力。


 ――不正保険記録を奪い、内部告発者を連れ去ろうとした疑い。


 ――契約労働者の違法移送に関与か。


「そんな」


 妻の顔が青ざめる。


「夫が内部告発者では?」


「記事では、横領を発見した倉庫監督官が内部告発者になっています」


 事実が、丸ごと反転していた。


 エミルは横領犯。


 倉庫監督官は不正を発見した勇気ある人物。


 テオは証拠を奪った外国帰りの大商人。


「新聞は確認もしないのですか」


「確認した上で載せたのでしょう」


「どういう意味です」


「どちらの記事が売れるか、誰が広告料を払うかを確認した」


 テオは新聞を畳んだ。


「この国では、真実が無料で届くとは限りません」


「夫を助けてください」


 妻は頭を下げた。


 テオは、すぐに「必ず」とは言わなかった。


 助けられなかった書記の目が浮かぶ。


「居場所を探します」


「助かるんですか」


「分かりません」


 ルーウェンがテオを見る。


 それでも、テオは言葉を変えなかった。


「分からないことを、分かるとは言えません。ただ、御主人が昨日言ったことを、横領犯の戯言にはさせません」


 妻は唇を噛み、頷いた。


 幼い息子が、机の新聞を見て尋ねる。


「お父さん、悪い人なの?」


 母親は答えられなかった。


 テオが椅子を少し低くし、少年と目を合わせる。


「君のお父さんは、怖い時に怖いと言えなかったかもしれない」


「それは悪いこと?」


「違う」


「じゃあ、何をしたの」


「最後に、本当のことを言った」


 少年はしばらく考えた。


「本当のことを言うと、捕まるの?」


 テオは答えに詰まった。


 オーランドは民主国家だ。


 議会がある。


 裁判がある。


 新聞がある。


 人権を掲げる法律もある。


 それでも、正しいことを言った男が捕まり、その日のうちに罪人へ書き換えられた。


「捕まらない国にしなければならない」


 テオは言った。


「誰が?」


「僕たちが」


 新聞の下には、エミルの名が横領犯として印刷されている。


 フィン・アレドの名は労働者保険へ。


 エミル・ハースの名は横領事件へ。


 人間を売る者たちは、身体だけでなく、名前の意味まで奪っていた。



 ◇


 その夜、テオの商会印を使った偽契約書が、オーランド議会の商業監査院へ届いた。


 グラント商会が、死亡者名義の契約労働者保険を保証したとする書類。


 署名は偽物。


 印は本物。


 いつ、どこで盗まれたのかも分からない。


 そして封筒の裏には、双頭鹿の蝋が薄く残されていた。


 グラニア王は、すでにテオを追う側から、追われる側へ変えようとしていた。



 ◇


Interlude グランデル帝国


 帝都の執務室へ、三通の報告書が同時に置かれた。


 一通目。


 ザクセル国境で、カラドリン製大型弩を用いた襲撃。


 二通目。


 イタリカ監察官カミラ・パヴェルによる、亡国王子レオン・ヴァン・リュカリオンとの結託自白。


 三通目。


 オーランドの河港で、旧グラニア王国の双頭鹿印が確認されたという未確認情報。


 アルベリヒ・ザ・グランデル四世は、二通目を最後まで読まず、机へ戻した。


「出来すぎているな」


 向かいに立つヴァルター軍監が答える。


「私も同意見です」


「理由は」


「三つの情報が、帝国の三つの恐怖を同時に刺激しています」


 皇帝は先を促した。


「革命の西進。旧ノルダリオン王族の生存。グラニア王の再出現」


「偶然ではないと?」


「偶然であれば、あまりに親切です」


 ヴァルターはカミラの偽自白書を手に取った。


「この文書は、イタリカ政府の公式発表ではありません。しかし政府内部の取調べ内容を知る者が書いている」


「レオンは生きていると思うか」


「賞金首狩りの報告、リンデン周辺の情報、アルムロイトから消えた傭兵の記録を合わせれば、可能性は高いかと」


「可能性では足りない」


「承知しております」


「強硬派へは渡すな」


「すでに別経路で届いている可能性があります」


「だから先に動け」


 皇帝は三通目へ指を置いた。


「グラニア王が生きているなら、旧連合の亡霊を王国が利用する」


「王国が保護を申し出るでしょう」


「そして帝国は反乱者として討つ。誰かが望む形だ」


 アルベリヒは窓の外へ目を向けた。


 帝都の屋根の向こうには、春の雲が低く流れている。


「レオンを英雄にも反乱者にもするな」


「捕らえますか」


「まず、生きている証拠を持ってこい」


「抵抗した場合は」


「殺すな」


 ヴァルターの表情は変わらない。


 だが、その命令の重さは理解していた。


「理由を伺っても?」


「死んだ亡国王子は、誰でも好きに使える」


 皇帝は偽自白書を見る。


「生きた本人なら、少なくとも自分で否定できる」


「御慈悲ですか」


「違う」


 アルベリヒは即座に答えた。


「帝国の秩序を、正体の分からぬ者が作った偽文書へ預けるつもりがないだけだ」


「グラニア王は」


「見つけろ」


「生死を問わず?」


 皇帝は少し考えた。


「生きて連れてこい。死者は嘘を訂正しない」


 ヴァルターは一礼し、三通の写しを受け取った。


 部屋を出る直前、皇帝が呼び止める。


「ヴァルター」


「はい」


「王国も同じ紙を受け取っている」


「間違いないでしょう」


「向こうがレオンへ接触する前に、見つけろ」


 命令を受け、ヴァルターは扉の向こうへ消えた。


 偽の自白書は、すでにイタリカを出ていた。


 レオン本人が一文字も書いていないうちに、帝国では反乱の火種として読まれ、王国では利用できる亡国王子の証明として読まれようとしている。


 名前は、本人より速く大陸を走る。


 その速さへ追いつけなければ、レオンもカミラも、自分たちが何者であるかを他人に決められる。


 移送まで、あと三日。



 ──第九十八部 了


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