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第九十八部 偽物は、本物より先に国境を越える話 ③ 二つ目の鐘と、戻らないガレス

 二つ目の鐘が鳴り終わっても、ガレスは戻らなかった。


 レオンは証言書の最後の一行へ筆を置いたまま、扉を見ている。


「まだ半刻も過ぎてない」


 ニーナが言った。


「戻ると言った」


「遅れることもあるよ」


「遅れるなら、そう言うべきだ」


「出かける前にどうやって分かるの」


「分からないなら遅れるな」


「無茶を言ってる」


 レオンは立ち上がった。


 右肩が痛み、顔が僅かに歪む。


 ニーナが前へ回り込む。


「どこへ行くの」


「様子を見る」


「探すかどうかは三人で決めるって言ったでしょう」


「三人目がいない」


「ヴィクトルがいる」


「数に入れていいのか」


 奥で活字を組んでいたヴィクトルが顔を上げる。


「都合のよい時だけ入れないでください」


「では、決を採る。探しに行く者」


 レオンが手を上げる。


 ニーナは上げない。


 ヴィクトルも上げない。


「二対一です」


「民主主義は嫌いだ」


「亡国の王子が言うと、妙に説得力があるね」


 ニーナはレオンの外套を掴み、椅子へ戻した。


「ガレスは戻ると言った」


「捕まっているかもしれない」


「信じるんでしょう」


「信用と放置は違う」


「では、あと半刻。半刻過ぎても戻らなければ、ヴィクトルへ連絡先を出してもらう。それから三人で考える」


「長い」


「一刻と言わないだけ譲ってる」


 レオンは扉を睨みながら座った。


「待つのは剣を振るうより疲れる」


「少しは慣れて」


「慣れたくない」


「私だって、患者が熱を出してる間は何もできずに待つことがある」


「医者は大変だな」


「医者じゃない」


「いつまで否定するんだ」


「免許を取るまで」


 半刻は過ぎなかった。


 扉が開き、ガレスが入ってくる。


「遅い」


 レオンが立ち上がる。


「鐘二つは鳴ったばかりだ」


「終わってから十分以上経っている」


「数えていたのか」


「数えるだろう」


 ガレスは外套を脱ぎ、机へ泥の付いた縄を置いた。


「気持ち悪いな」


「戻った者へ最初に言う言葉か」


「前にも言ったが、急に信用するな」


 ニーナはガレスの歩き方を見た。


「脇腹」


「何でもない」


「第一条」


「俺はその規則へ署名していない」


「署名しなくても適用する」


「横暴だ」


「服を上げて」


「ここで?」


「男同士なら平気でしょう」


「レオンを男として数えていいのか」


「どういう意味だ」


「女が絡むと判断力が落ちる」


「お前よりはある」


「二人とも、服を上げるのはガレスだけ」


 ニーナの声に押され、ガレスは諦めて上衣を持ち上げた。


 右の脇腹が赤紫に腫れている。


「棍棒?」


「ああ」


「痛い?」


「少し」


 ニーナが指で軽く押す。


 ガレスの身体が跳ねた。


「かなり」


「最初からそう言って」


「骨は折れていない」


「私が確認する」


「お前は医者ではないのだろう」


「骨が折れてるかくらいは分かる」


 ニーナが診ている間、ガレスは縄と泥の説明をした。


「旧河岸検疫所の可能性が高い。染料、石灰、濡れた葦。軍が使うなら、表からは物資置場に見える」


「カミラがいる?」


「少なくとも、薬はそこへ運ばれた」


 ニーナも倉庫で見た内容を報告する。


「患者は四人。カミラさんのほかに男三人。それから、移送は五日後ではない」


「いつだ」


 レオンが尋ねる。


「三日後」


 部屋の空気が変わった。


「偽自白を出した直後に、早めたのか」


 ヴィクトルが呟く。


「こちらの動きに気付いた可能性があります」


「攻める」


 レオンが即座に言った。


「まだ早い」


「場所は分かった」


「可能性が高いだけだ」


 ガレスが止める。


「施設の出口、警備数、交代、地下通路、ほかの三人の身元が分からない」


「三日しかない」


「だからこそ、外せない」


 ヴィクトルが机へ新しい紙を置いた。


 カミラの偽自白書。


「先ほど届きました」


 レオンは奪うように取り、本文を読む。


 途中で顔が変わった。


「カミラは、こんな書き方をしない」


「どこが?」


 ニーナが横から覗く。


「全部だ」


「個人的な執着ってところ?」


「特にそこだ」


「どうして分かるの」


「カミラなら、もっと直接言う」


「たとえば?」


「……国家が間違っていたから背いた、とか」


「そこまで分かるんだ」


 ニーナの声が、また僅かに低くなる。


 レオンは紙から目を離さず答えた。


「一緒にいたからな」


「そう」


「怒っているのか」


「だから、何に」


「分からん」


「では聞かないで」


 ガレスが脇腹へ冷布を当てながら言う。


「そのやり取りは毎回やるのか」


「黙って」


「第四条だな」


 ヴィクトルは偽自白書の五種類の見出しを見せた。


「同じ文書が、帝国、王国、ザクセル、カラドリンへ別の説明付きで送られています」


「向こうが先に俺の名を出した」


「ええ」


「なら、俺も名乗る」


「いま全面的に名乗れば、政府の主張を補強します」


「黙っていれば、好きに使われる」


「どちらも罠です」


「では、何をする」


 ヴィクトルが答える前に、ニーナが口を開いた。


「カミラだけじゃない」


 レオンが見る。


「四人いる。ほかの三人も、同じ場所から移される」


「カミラを助けるための証人かもしれない」


 ガレスが言う。


「逆に、カミラを縛るための人質かもしれん」


「名前は?」


「分からない」


 レオンは偽自白書を机へ置いた。


 目を閉じ、数秒だけ考える。


「最初の作戦を変える」


「どう変える」


 ヴィクトルが尋ねる。


「カミラ一人を出す作戦はやめる」


 ニーナがレオンを見る。


「四人全員を出す?」


「ああ」


「相手が誰かも分からない」


「だから調べる」


「時間は三日だ」


 ガレスが言う。


「三日ある」


「言い方だけで長くはならん」


「それでも、一人だけ選んで残りを見捨てれば、カミラは出てこない」


 ヴィクトルの目が僅かに変わった。


「彼女なら、そう言うでしょうね」


「知っている」


「なら、まず三人の名前を探します」


 ヴィクトルは印刷所の壁へ貼られた地図へ向かった。


「旧河岸検疫所の過去の収容記録、軍保安局が拘束した証言者、党倫理委員会の非公開審査対象、国家保安局が消した人物。四つの名簿を照合する」


「俺の証言は?」


「続けてください」


「いまから潜入の準備を」


「右肩が上がらない状態で?」


 ニーナが遮る。


「左手は使える」


「カミラさんも同じことを言いそう」


「何?」


「左手が使えないなら右手がある。右手が使えないなら歯で噛む、とか」


 レオンは反論しかけ、やめた。


「言うな」


「似てるね」


「似ていない」


「似てる」


 ガレスとヴィクトルが同時に頷いた。


「お前たちまで」


「多数決です」


 ヴィクトルが言った。


「民主主義は嫌いだ」


「先ほども聞きました」


 偽物の自白書は、本物より先に大陸へ広がった。


 敵はレオンの名を使い、カミラの感情を作り、まだ始まっていない戦争へ意味を与えた。


 それでも、偽物が先に進んだからこそ見えたものもある。


 敵はカミラを一人で動かしていない。


 同じ牢に、名前を消された三人がいる。


 レオンは筆を取り直した。


 自分の名を出す時は、まだ来ていない。


 だが、出すべき名前は、すでに一人分ではなくなっていた。



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