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第八部 外科医ヴェロニカと、書かれる名前の話 ④ 〜空白の欄〜

 翌日、医療検分が始まった。


 検分といっても、遺体を並べて診るわけではない。


 ガリレオの事故から時間が経っている。


 多くは既に埋葬されていた。


 だからヴェロニカが見るのは、死亡記録、町医者の控え、埋葬簿、遺品、そして証言だった。


 紙の上の死者を見る仕事だ。


 それは、腹を開くより簡単ではなかった。


 町医者の小屋は、鉱山事務所の裏手にあった。


 薄暗い。


 棚には薬瓶が並び、机の上には古い帳簿が積まれている。


 窓際の椅子に、町医者が座っていた。


 小柄な老人で、指の関節が太い。


 鉱山町の医者の指だった。


 骨折、火傷、肺の咳、落盤の圧挫。


 そういうものを何十年も触ってきた指だ。


 ヴェロニカは帳簿を開いた。


 手袋をはめ、ひとつずつ確認していく。


 死因。


 発見場所。


 処置。


 埋葬日。


 遺品。


 彼女の目は速い。


 しかし、雑ではない。


 ヴェラが患者の腹を診る時と同じだった。


 紙の上の傷を、彼女は指で探している。


 しばらくして、手が止まった。


「この欄は、なぜ空白だ」


 町医者が喉を鳴らした。


「身元不明でした。外から流れてきた坑夫が混じっていたようで」


「身元不明、と書くなら、そう書く欄がある。この欄は、空白だ」


「……急いでおりました。事故の後は、負傷者の処置もあり、遺体の確認もあり、家族への連絡もありました。正直、手が足りませんでした」


「手が足りなかったことは分かる」


 ヴェロニカは、声を荒げなかった。


 それが逆に怖かった。


「だが、死者は急がない。急ぐのは生者の都合だ」


 町医者は俯いた。


 長い沈黙が落ちた。


 責められている老人の肩は小さかった。


 けれど、その小さな肩に、町の死者の名がずっと乗っていたのだと思うと、単純には責められなかった。


「遺品は」


 町医者は、棚の奥から布袋を出した。


 中には、破れた上着の切れ端、錆びた小銭、木の護符、短い紐が入っていた。


 ヴェロニカは上着の切れ端を広げた。


 胸の左にあたる場所。


 そこに、黒い染みがあった。


 染みの形を見た瞬間、俺の背中が冷えた。


 円の中に、目。


 刺青そのものではない。


 皮膚から衣服へ移った古い染料の跡だ。


 それでも形は分かった。


 ヴェロニカの手が止まる。


「これは何だ」


 俺とリューリックは、しばらく答えなかった。


 隠したかったわけではない。


 言えば、また重くなるからだ。


 けれど、ヴェロニカは待っていた。


 待てる女だった。


 手術台の前で、患者の呼吸が戻るのを待てる女だ。


 俺は低く言った。


「俺たちにも、まだ分からない。ただ、見たことはある」


「何度」


「五度。いや、今ので六度目かもしれない」


「場所は」


「リヴェン、リンデン、シュタールベルク、カステリオ、ガリレオ。出方は全部違う」


「敵の印か」


「そう思っていた。だが、警告者にもあった。死者にもある。敵味方で割り切れない」


「ふん」


 ヴェロニカは、それ以上追わなかった。


 必要なことだけ聞き、必要以上に開かない。


 外科医の手つきで、情報にも刃を入れている。


「この男の名は」


 リューリックが、畳んだ小さな紙を出した。


「ガリレオの雇用記録では、ヘンリク・ヴォダ、と記されております。外から来た坑夫で、支柱の異常を何度か訴えていた者です。さらに、リータさんの助産院に薬を受け取りに来ていた人物とも特徴が一致します」


「その記録は正式なものか」


「正式ではございません。鉱山の雇用控えです。ただし、筆跡と日付は他の記録と合います」


「十分だ」


 ヴェロニカはペンを取った。


 死亡記録の空白の欄に、ゆっくりと書いた。


 ヘンリク・ヴォダ。


 インクが紙に沈む。


 ただの字だ。


 だが、空白だった場所に、人間が戻ってくる瞬間を、俺は見た。


「敵兵ではない。坑夫だ」


 俺が言った。


「ええ」


 ヴェロニカはペンを置いた。


「それで十分だ」


 町医者が、しばらくその欄を見ていた。


 それから、かすれた声で言った。


「すみません」


 誰に向けた謝罪なのか、分からなかった。


 ヘンリクにか。


 ヘンリクの家族にか。


 記録の空白にか。


 それとも、何十年も空白を作り続けてきた自分自身にか。


 ヴェロニカは責めなかった。


 ただ、帳簿を閉じた。


「謝罪より、次の欄を空けないことです」


「……はい」


 老人は小さく頷いた。


 その頷きは、書類より少しだけ重かった。


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