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第八部 外科医ヴェロニカと、書かれる名前の話 ③ 〜怖い医者〜

 中央監察団がカステリオに入ったのは、翌朝だった。


 馬車は五台。


 護衛は十数人。


 車輪の音が石畳を叩くたび、町の空気が少しずつ硬くなっていく。


 灰色の上着を着た役人たちが、馬車から降りた。


 町の人々は、遠巻きに見ている。


 誰も声を上げない。


 声を上げないまま、じっと見ている。


 監察団の中央に、五十代の男がいた。


 背は高い。


 頬は痩せている。


 目は冷たいが、濁ってはいない。


 悪人の目ではなかった。


 悪人なら、まだ楽だった。


 彼は自分が正しい側にいると信じている目をしていた。


「マルキウス・コルヴァヌス」


 リューリックが低く言った。


「知ってるのか」


「中央政府の監察官僚です。革命戦争後の行政整備を担った世代、と聞いております」


「つまり、カミラとは逆側か」


「逆側というより、同じ革命の別の出口に立った方でしょう。現場で血を見た者と、机の上で国家を組み直した者。その違いです」


「また難しい言い方をする」


「簡単に言うと、かなり面倒です」


「最初からそれでいい」


 マルキウスは広場の中央に立ち、町の代表者に向けて言った。


「ガリレオ坑道の三日停止について、再評価を行う。関係記録、死亡記録、生産記録、配給記録、すべて提出せよ」


 声はよく通った。


 怒鳴ってはいない。


 だが、命令だった。


 その後ろの馬車から、医療関係者らしい者が降りた。


 黒い髪。


 痩せた体。


 軍医の徽章。


 見覚えのある立ち方。


 俺は、息を止めた。


 ヴェロニカだった。


 イタリカ軍野戦病院の主任外科医。


 腹の中に国旗はありません、と敵兵を縫った女。


 そして、夜には俺の耳朶を噛んで、「昼の私と夜の私、どちらが怖かった」と訊いた女。


 彼女は俺を見た。


 一拍。


 目だけが合った。


 口元は動かなかった。


 けれど、その目は言っていた。


 生きていたか、と。


 俺は、ほんの少しだけ頷いた。


 ヴェロニカは何も返さず、マルキウスの後ろに立った。


 職務中の顔だった。


 昼の外科医の顔。


 その顔を見た瞬間、背筋が少し伸びた。


 たぶん俺は、夜の彼女より、昼の彼女の方を少しだけ怖がっている。


 いや、違う。


 どちらも怖い。


 以前、そう答えた。


 正解だったらしい。



 ◇



 その夕方、宿屋の裏手でヴェロニカを待った。


 待った、と言うと格好がつく。


 実際には、宿屋の裏の樽に腰を下ろし、何度も立ったり座ったりしながら、完全に挙動不審だった。


 リューリックには「殿下、恋人を待つ犬に近い動きでございます」と言われた。


 犬に失礼だと思う。


 しばらくして、裏口が開いた。


 ヴェロニカが出てきた。


 軍服の上着を羽織り、髪を後ろでまとめている。


 暗くなりかけた夕方の光の中で、彼女の横顔は刃物のように細かった。


 この女は、戦場でも、宿屋の裏でも、空気を手術室に変える。


「ヴェラ」


「……ふん。生きていたか」


「ああ。そこそこしぶとく」


「縫った肩は、まだ持っているか」


「持ってる。最近は肩より、顔の方がよく痛む」


「誰に殴られた」


「監察官に」


「カミラか」


「知ってるのか」


「この国で、傭兵を殴っても書類にしない監察官は少ない」


「分類が雑だな」


「だいたい合っている」


 ヴェロニカは俺の顔を見た。


 まだ落ちきらない青いインクの跡に目を止める。


「今度は何に染まった」


「青いインクに選ばれた」


「お前は、女と傷と変な組織にばかり選ばれるな」


「否定したいが、最近の実績が邪魔をする」


「賢明だ。事実に負ける時は、早めに負けた方が傷が浅い」


 彼女は近づいた。


 俺の左肩に手を置く。


 指が、縫合痕の上を迷いなくなぞった。


 服の上からでも分かるらしい。


 その指は冷たい。


 だが、触れた場所だけ、妙に熱くなる。


 ヴェラの指先には、昼の外科医の正確さと、夜の女の記憶が同時にある。


 それが厄介だった。


「開いていない。動かし過ぎてもいない。珍しく、言いつけを守ったな」


「俺も成長する」


「成長というより、周囲の女たちに殴られ、叱られ、縫われた結果だろう」


「ひどい分析だが、正しい」


「正しいなら黙って受け取れ」


 ヴェロニカの指が、肩から少し下へ滑った。


 傷を診ているだけだ。


 たぶん。


 たぶん、という言葉は信用ならない。


「ここで診るな。外だぞ」


「誰も見ていない」


「リューリックが遠くから見ている可能性がある」


「なら、家令に見られて困ることをするな」


「してるのはお前だ」


「私は肩を診ている」


「本当に肩だけか」


 ヴェロニカは、そこで初めて少し笑った。


 危険な笑いだった。


 夜の彼女が、ほんの少しだけ顔を出す。


「夜なら、もっと丁寧に診る」


「やめろ。査問前に俺の心臓を検分するな」


「心臓は生きている。うるさいほどにな」


「そこまで分かるのか」


「医者だからな」


 彼女は手を離した。


 すぐに、顔が昼に戻る。


 外科医の顔。


「私が、なぜここにいると思う」


「鉱山事故の検分か」


「ええ。私はイタリカ軍野戦病院の主任外科医のままだ。ただ、今回は臨時の医療検分官として徴発された」


「軍医が鉱山事故の検分までやるのか」


「この国では、医者が足りない。軍医は戦場だけではなく、疫病、労災、捕虜、鉱山、何にでも呼ばれる。革命は万能の医療制度を約束したが、万能の医者までは増やせなかった」


「それで、お前が便利に使われる」


「そうだ。私は便利な刃物だと思われている」


「中央は、なぜお前を選んだ」


「敵兵を縫った医者なら、坑夫の死にも余計な感情を入れないと思われたらしい」


「……計算違いだな」


「そうかもしれない」


「気付かせるのか」


「私は、医者だ」


 彼女は低く言った。


「それ以上の答えは、現場で出す」


 風が吹いた。


 宿屋の裏手に積まれた空樽が、かすかに鳴った。


 ヴェロニカは、もう一度だけ俺を見た。


「レオン」


「何だ」


「今夜は来るな」


「まだ何も言ってない」


「顔が言っている」


「俺の顔、女たちに読まれすぎだろ」


「騒がしい顔をしているからだ」


「カミラと同じことを言うな」


 ヴェロニカは背を向けた。


 数歩進んでから、振り返らずに言った。


「ただし、死に損なう前には来い」


 それだけ言って、宿屋へ戻った。


 俺はしばらく、その背中を見ていた。


 リューリックがいつの間にか横に立っていた。


「殿下」


「いつからいた」


「『夜なら、もっと丁寧に診る』のあたりからでございます」


「聞くな!」


「耳を閉じる家令の本義は、まだ習得しておりません」


「習得しろ」


「善処いたします」


「善処じゃない。実行しろ」


「女性陣の口癖が移っておられます」


「うるさい」


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