第八部 外科医ヴェロニカと、書かれる名前の話 ② 〜墓前の前金〜
カステリオに戻ったのは、それから四日後だった。
夏の終わりの風が、町の低い屋根の間を抜けていた。
前に来た時より、町は少しだけ静かだった。
鉱山は動いている。
だが、馬車の数は減っていた。
坑夫たちの足取りも、以前より少し遅い。
止められない坑道が、ほんの少しだけ、止まるという選択肢を覚えたような空気だった。
静かになった町は、平和になった町とは違う。
平和は、空気が柔らかくなる。
この町の静けさは、何かを言わずに飲み込んでいる静けさだった。
街角の壁に、青いインクの号外が貼られている。
紙は粗い。
字は少し滲んでいる。
だが、読める。
──ガリレオ坑道の三日停止は、カミラ・パヴェル監察官の名で決定された。
──三日間、坑夫は坑道に降りなかった。
──死者の数は、三日分だけ増えなかった。
俺はその紙の前で足を止めた。
町の人々も、時々その紙を見る。
誰も剥がさない。
剥がさないというだけで、町が何かを選んでいるように見えた。
「ヴィクトル殿が、孤立させない、を果たしておいでです」
リューリックが低く言った。
「助けるわけじゃないんだな」
「ええ。助けるのではなく、孤立させない。地下のやり方なのでしょう」
「紙一枚でか」
「紙一枚でも、貼られている間は、誰かが見ています。誰かが見ている限り、完全には消せません」
「お前、印刷所に三日いただけで、だいぶ染まったな」
「殿下ほど青くはございません」
「顔の話に戻すな」
号外の下には、別の紙が貼られていた。
鉱山事務所からの告知。
支柱点検のため、一部坑道の稼働を縮小。
支柱材の追加搬入。
死亡記録の再確認。
文字は地味で、役所の言葉だった。
だが、その地味さの中に、三日停止の小さな結果があった。
完全勝利ではない。
坑道は止まっていない。
割当も残っている。
配給も増えない。
だが、一部だけ止まり、支柱だけは替えられ、死者の記録だけは見直される。
革命でも勝利でもない。
ただ、少しだけ、誰かが潰れる速度を遅くした。
それでも、何もしないよりは、ずっと重い。
◇
俺たちは、町の南西にあるハンナの納屋へ向かった。
納屋の扉は開いていた。
中から、ラバの鼻息と、犬の足音と、薬草を煮る匂いがした。
戸を軽く叩く。
「入んな」
返事は早かった。
中では、ハンナがラバの蹄を磨いていた。
麦色の髪をいつものように雑に束ね、袖を肘までまくっている。
腕は太い。
手の甲には古い火傷の跡。
その手が、ラバの脚を持ち上げ、蹄の泥を丁寧に落としていた。
人間より動物に優しい女の手だった。
けれど、その手が人間を見捨てるわけではないことを、俺はもう知っている。
「あんた、戻ってきたか」
「ああ」
「また余計なことを拾ってきた顔だね」
「顔で分かるのか」
「分かる。獣医だからね」
「獣医って便利だな」
「便利じゃない。分かるものが増えると、面倒が増えるだけだ」
ハンナはラバの蹄から目を離さなかった。
「馬蹄鉄、まだ持ってるか」
「持ってる」
「重さは」
「変わらない。いや、少し増えた気がする」
「ふん。鉄は増えない。重くなるのは、あんたの中身だ」
「嫌な言い方をする」
「観察結果だよ」
リューリックが、一歩前に出た。
いつもより、少しだけ姿勢が固い。
「ハンナ姐さん」
「何だい、丁寧な家令」
「お約束を、果たしに参りました」
ハンナの手が、一瞬止まった。
ラバの蹄を支えたまま、彼女は目だけを上げた。
「まだ、その時じゃないだろ」
「はい。まだ、ちゃんと帰れる場所を取り戻したわけではございません」
「じゃあ、約束は早い」
「これは前金です」
「墓に前金って、初めて聞いたよ」
「家令とは、本来、先に整えておく仕事でございます」
「ふん。墓守まで副業に入ったか」
「必要とあらば」
リューリックは、革袋から小さな花を取り出した。
街道の途中で摘んだものではない。
町に入る前、白い花を一本だけ買っていた。
名前は知らない。
夏の終わりに咲く、薄く、乾いた花だった。
ハンナは、それを見た。
笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、ラバの蹄をそっと下ろし、手を布で拭いた。
「行くよ」
「はい」
墓は、納屋の裏手の小さな丘にあった。
石が一つ。
名前が刻まれている。
風で少し削れていたが、読めた。
リューリックは、その石の前に膝をついた。
花を置いた。
何も言わなかった。
ハンナも、何も言わなかった。
俺も言わなかった。
言葉を足すと、花が軽くなるような気がした。
しばらくして、ハンナが低く言った。
「ありがとう」
声は小さかった。
けれど、風に消えなかった。
リューリックは、深く頭を下げた。
「まだ、前金でございます」
「じゃあ、本払いも、いつか持ってきな」
「畏まりました」
その言い方があまりにも真面目で、ハンナが少し笑った。
笑った目の端に、泣く一歩手前のものがあった。
彼女は泣かなかった。
動物たちの前で、彼女はいつも、泣くのを後回しにする。
たぶん今日も、夜になってから、棚の空いた馬蹄鉄の跡に触れるのだろう。




