表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

48/75

第八部 外科医ヴェロニカと、書かれる名前の話 ② 〜墓前の前金〜

 カステリオに戻ったのは、それから四日後だった。


 夏の終わりの風が、町の低い屋根の間を抜けていた。


 前に来た時より、町は少しだけ静かだった。


 鉱山は動いている。


 だが、馬車の数は減っていた。


 坑夫たちの足取りも、以前より少し遅い。


 止められない坑道が、ほんの少しだけ、止まるという選択肢を覚えたような空気だった。


 静かになった町は、平和になった町とは違う。


 平和は、空気が柔らかくなる。


 この町の静けさは、何かを言わずに飲み込んでいる静けさだった。


 街角の壁に、青いインクの号外が貼られている。


 紙は粗い。


 字は少し滲んでいる。


 だが、読める。


 ──ガリレオ坑道の三日停止は、カミラ・パヴェル監察官の名で決定された。


 ──三日間、坑夫は坑道に降りなかった。


 ──死者の数は、三日分だけ増えなかった。


 俺はその紙の前で足を止めた。


 町の人々も、時々その紙を見る。


 誰も剥がさない。


 剥がさないというだけで、町が何かを選んでいるように見えた。


「ヴィクトル殿が、孤立させない、を果たしておいでです」


 リューリックが低く言った。


「助けるわけじゃないんだな」


「ええ。助けるのではなく、孤立させない。地下のやり方なのでしょう」


「紙一枚でか」


「紙一枚でも、貼られている間は、誰かが見ています。誰かが見ている限り、完全には消せません」


「お前、印刷所に三日いただけで、だいぶ染まったな」


「殿下ほど青くはございません」


「顔の話に戻すな」


 号外の下には、別の紙が貼られていた。


 鉱山事務所からの告知。


 支柱点検のため、一部坑道の稼働を縮小。


 支柱材の追加搬入。


 死亡記録の再確認。


 文字は地味で、役所の言葉だった。


 だが、その地味さの中に、三日停止の小さな結果があった。


 完全勝利ではない。


 坑道は止まっていない。


 割当も残っている。


 配給も増えない。


 だが、一部だけ止まり、支柱だけは替えられ、死者の記録だけは見直される。


 革命でも勝利でもない。


 ただ、少しだけ、誰かが潰れる速度を遅くした。


 それでも、何もしないよりは、ずっと重い。



 ◇



 俺たちは、町の南西にあるハンナの納屋へ向かった。


 納屋の扉は開いていた。


 中から、ラバの鼻息と、犬の足音と、薬草を煮る匂いがした。


 戸を軽く叩く。


「入んな」


 返事は早かった。


 中では、ハンナがラバの蹄を磨いていた。


 麦色の髪をいつものように雑に束ね、袖を肘までまくっている。


 腕は太い。


 手の甲には古い火傷の跡。


 その手が、ラバの脚を持ち上げ、蹄の泥を丁寧に落としていた。


 人間より動物に優しい女の手だった。


 けれど、その手が人間を見捨てるわけではないことを、俺はもう知っている。


「あんた、戻ってきたか」


「ああ」


「また余計なことを拾ってきた顔だね」


「顔で分かるのか」


「分かる。獣医だからね」


「獣医って便利だな」


「便利じゃない。分かるものが増えると、面倒が増えるだけだ」


 ハンナはラバの蹄から目を離さなかった。


「馬蹄鉄、まだ持ってるか」


「持ってる」


「重さは」


「変わらない。いや、少し増えた気がする」


「ふん。鉄は増えない。重くなるのは、あんたの中身だ」


「嫌な言い方をする」


「観察結果だよ」


 リューリックが、一歩前に出た。


 いつもより、少しだけ姿勢が固い。


「ハンナ姐さん」


「何だい、丁寧な家令」


「お約束を、果たしに参りました」


 ハンナの手が、一瞬止まった。


 ラバの蹄を支えたまま、彼女は目だけを上げた。


「まだ、その時じゃないだろ」


「はい。まだ、ちゃんと帰れる場所を取り戻したわけではございません」


「じゃあ、約束は早い」


「これは前金です」


「墓に前金って、初めて聞いたよ」


「家令とは、本来、先に整えておく仕事でございます」


「ふん。墓守まで副業に入ったか」


「必要とあらば」


 リューリックは、革袋から小さな花を取り出した。


 街道の途中で摘んだものではない。


 町に入る前、白い花を一本だけ買っていた。


 名前は知らない。


 夏の終わりに咲く、薄く、乾いた花だった。


 ハンナは、それを見た。


 笑わなかった。


 泣きもしなかった。


 ただ、ラバの蹄をそっと下ろし、手を布で拭いた。


「行くよ」


「はい」


 墓は、納屋の裏手の小さな丘にあった。


 石が一つ。


 名前が刻まれている。


 風で少し削れていたが、読めた。


 リューリックは、その石の前に膝をついた。


 花を置いた。


 何も言わなかった。


 ハンナも、何も言わなかった。


 俺も言わなかった。


 言葉を足すと、花が軽くなるような気がした。


 しばらくして、ハンナが低く言った。


「ありがとう」


 声は小さかった。


 けれど、風に消えなかった。


 リューリックは、深く頭を下げた。


「まだ、前金でございます」


「じゃあ、本払いも、いつか持ってきな」


「畏まりました」


 その言い方があまりにも真面目で、ハンナが少し笑った。


 笑った目の端に、泣く一歩手前のものがあった。


 彼女は泣かなかった。


 動物たちの前で、彼女はいつも、泣くのを後回しにする。


 たぶん今日も、夜になってから、棚の空いた馬蹄鉄の跡に触れるのだろう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ