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第八部 外科医ヴェロニカと、書かれる名前の話 ① 〜書かれる名前〜

 名は、書かれなければ消える。


 人は死ぬ。


 坑道で潰されても、戦場で腹を裂かれても、病床で熱に焼かれても、人は死ぬ。


 死そのものは、どうにもならない。


 だが、死んだあとに、その人間が何だったことにされるのかは、まだ少しだけ争える。


 坑夫だったのか。


 暴徒だったのか。


 敵兵だったのか。


 身元不明者だったのか。


 ただの数字だったのか。


 人は死ぬ。


 けれど、死者を何と呼ぶかは、生き残った者が決める。


 その呼び方を決める紙の上で、人は二度目に殺されることがある。


 カステリオの空は、夏の終わりの色をしていた。


 日差しはまだ強い。


 けれど、朝夕の風には、もう夏の粘りがなかった。


 鉱山から流れる煙は低く、町の石畳には薄い灰が積もり、ハンナの納屋の扉には何度も洗われた白布が乾かされている。


 その白布の端が、風に小さく揺れていた。


 そこへ、中央監察団が来た。


 ガリレオ坑道の三日停止を、再評価するために。


 カミラ・パヴェル監察官が、人民の鉱山を止めた責任を問うために。


 そして、その監察団の馬車から、俺の知っている女が降りてきた。


 外科医ヴェロニカ。


 昼は外科医。


 夜は女。


 どちらも本物で、どちらも危険な女。


 彼女は、イタリカ軍野戦病院の主任外科医のまま、臨時の医療検分官として徴発されていた。


 この国では、軍医は戦場だけの医者ではない。


 兵士の腹を縫い、捕虜の命をつなぎ、疫病を見て、鉱山事故の死因まで確認させられる。


 軍と人民と労働が、同じ革命の名で結ばれている国だからだ。


 中央は、ヴェロニカなら余計な感情を入れずに死者を見ると思ったらしい。


 それは、かなり大きな計算違いだった。


 ヴェロニカは医者だ。


 医者は、腹の中に国旗を見ない。


 なら、死者の胸にも、都合のいい肩書きだけを見るはずがなかった。


 俺の名は、レオン。


 便宜上は、ただの傭兵。


 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。


 趣味、惚れること。


 専門、死にかけて誰かに縫い直されること。


 この町で俺は、もう一度、名前の重さを知った。


 女の拳より、外科医の針より、青い活字より、静かに重いものだった。



 ◇



 ヴァルガスを出て、俺たちは一度、西へ向かった。


 カラドリンの山影が、日に日に近づいていた。


 空は高い。


 街道の脇の草は、夏の勢いを失い、先の方から少しずつ乾き始めている。


 馬の蹄が乾いた土を踏むたびに、軽い砂埃が立った。


 砂埃の匂いの奥には、遠い鉱山の煙が混じっている。


 俺の顔に残っていた青いインクは、二日目の朝になっても完全には落ちなかった。


 頬の端に、薄く、しぶとく、青が残っている。


 リューリックは、それを見るたびに、笑っていない顔で目を細めた。


「殿下」


「言うな」


「まだ何も申し上げておりません」


「顔が言ってる。俺の顔を見て、『まだ青い』って思ってる顔だ」


「殿下のお顔も、青いインクが多くを語っております」


「人の顔を印刷物扱いするな」


「ですが、現在の殿下は、青いインクの告知板に近い状態でございます。通行人が見れば、地下組織の宣伝役か、印刷所の失敗作のどちらかだと判断するかと」


「どっちも嫌だ」


「では、三つ目の分類として、ただの不注意な傭兵を加えます」


「それが一番嫌かもしれない」


「事実に近いものほど、心を抉ります」


「お前、だんだんカミラに似てきたな」


「それは、褒め言葉として受け取るべきでしょうか」


「やめろ。お前まで監察官口調になったら、俺の旅が息苦しくなる」


「ご安心ください。私は家令でございます」


「家令も十分息苦しいんだよ」


 そう言ったところで、前方から荷馬車が来た。


 カステリオ方面からの馬車だった。


 御者は灰色の帽子をかぶった痩せた男で、荷台には紙束と酒樽が積まれている。


 紙束の端には青い染みがあった。


 もう、その色を見ただけで、俺の胸の奥が少し構える。


 すれ違う瞬間、男が馬車を止めた。


「派手な傭兵」


「また俺か。俺はもう、名前より先に派手で呼ばれるようになったのか」


「青い顔だから、間違えようがない」


「そろそろ落ちてほしいんだが」


「落ちないから、いい目印になる」


「俺の顔を目印にするな」


 男は荷台から折りたたんだ紙を一枚出した。


 青いインクだった。


 まただ。


 この色は、こちらの都合を聞かずに懐へ入ってくる。


 紙には短く書かれていた。


 ──カステリオに中央監察団。ガリレオ三日停止の査問。カミラ・パヴェル、出頭。


 俺は紙を読んだ。


 リューリックも読んだ。


 風が、街道の乾いた草を鳴らした。


 カミラ。


 灰色の上着。


 短い黒髪。


 左手首の奴隷の烙印跡。


 国家を信じている。だから、毎日疑っている。


 あの女の声が、街道の風より先に戻ってきた。


「殿下」


「ああ。進路を戻すかどうか、だな」


「はい。カラドリン方面へ向かう予定は、二日遅れても大きな支障はありません。ですが、カミラ監察官の査問は、今しか見られないでしょう」


「俺たちが見たところで、何ができる」


「何もできないかもしれません」


「冷静だな」


「できることと、見届けることは違います。今の我々には、後者の方が必要かと」


「見届けるだけか」


「はい。少なくとも、彼女が一人で書類の上に消されるのを、ただ街道の向こうで知らずにいるよりは良いでしょう」


 紙が指の間で少し鳴った。


 軽い音だった。


 軽い音なのに、胸の奥では重く響く。


「お前はどう思う」


「本音を申し上げれば、戻るべきです」


「理由は」


「ガリレオで三日坑道を止めた決定がどう処理されるかを見ることは、イタリカという国を知る上で重要です。そして、カミラ監察官がどう扱われるかは、この国が現場をどこまで許容できるかを示します」


「難しいな」


「簡単に言うと、あの方が潰されるか、使い直されるか、見ておくべきです」


「使い直されるって言い方が嫌だな」


「国家は、人をそう扱います」


「カミラも同じようなことを言っていた」


「ええ。だから、見届ける価値があります」


 俺は紙を折った。


 革袋にしまう。


 中で、ヴィクトルから受け取った古い活字が小さく当たった。


 真、という意味の古い字。


 真実ではなく、真。


 一文字だけだから持てるのだと、俺は思ったばかりだった。


 その一文字が、いま、紙の中で静かに鳴った。


「戻るか」


「はい」


「二日戻って、また西へ出る。俺たちの旅、地図に書いたらひどい線になりそうだな」


「殿下の人生そのものが、直線ではございませんので」


「うるさい」


「左様で」


 俺たちは馬首を返した。


 西へ向かった街道を、今度は東へ戻る。


 乾いた草の音が、後ろから前へ変わった。


 旅は、いつも前に進むものだと思っていた。


 だが、戻ることもある。


 戻ることが、たぶん、誰かの名を消させないために必要な日もある。


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