第七部 印刷工ヴィクトルと、地下の国の話 ⑥ 〜一文字〜
地下道を抜けると、町外れの井戸小屋に出た。
井戸は使われていない。
石の縁に苔が生えている。
小屋の外では、夜明け前の空が白み始めていた。
ヴィクトルは紙束を、井戸小屋の奥に隠された木箱に入れた。
木箱は二重底になっている。
リューリックが、感心したように見た。
「見事な隠し方です。紙が湿らない高さと、見つかった時にただの古板に見える厚みが両立しています」
「丁寧な家令に褒められると、仕事をした気になる」
「正しく隠すことは、正しく置くことと同じでございます」
「うちで働かないか」
「主君の品位回復が終わりましたら」
「終わらないな」
「左様で」
「だから、俺の品位を不可能事業にするな!」
ヴィクトルは、懐から小さな金属片を出した。
活字だった。
俺の手のひらに乗せる。
ひとつの文字。
古いイタリカ文字らしい。
形は分からない。
青いインクが溝に残っている。
「これは」
「真、という意味の古い字だ」
「真」
「一度だけ使える。青いインクの仲間に見せれば、話くらいは聞く」
「大事なものじゃないのか」
「大事なものは、だいたい渡すためにある。持っているだけなら、ただの重しだ」
「重いことを軽く言うな」
「軽く言わないと、渡せない」
俺は活字を革袋にしまった。
ハンナの馬蹄鉄。
リータの白い布。
青銅の札。
坑道の地図。
そして、青い活字。
音のするものと、音のしないものが、また一つ増えた。
ヴィクトルは井戸小屋の外へ出た。
夜明けの光の中で、彼の右手の指先が青く見えた。
「ヴィクトル」
「何だ」
「地下は、国なのか」
彼はしばらく黙った。
そして、首を横に振った。
「違う」
「なぜだ」
「地下は、国家ではない。税も軍も旗もない。正しいことも、間違ったことも、全部同じ狭さに押し込まれている。きれいなものじゃない」
「……」
「でも、人は、そこにもいる」
それだけ言った。
その言葉は、ガリレオでカミラが言った「人民が止められる」とは別の重さだった。
カミラは、国家の中にいる女だった。
ヴィクトルは、国家の下にいる男だった。
地上と地下。
二人は、たぶん同じ革命の別々の階にいる。
その二人が「昔の話だ」と言って、同じ扉を閉じた。
俺には、まだ開けられない扉だった。
◇
夜明け後、俺たちはヴァルガスの西門跡へ向かった。
町はまだ眠っている。
ただし、何枚かの紙が、もう壁に貼られていた。
坑道の声を地上へ。
青い文字。
乾いたインク。
誰が貼ったのか、俺には分からない。
だが、町の女が一人、その紙の前に立っていた。
読んでいる。
声には出していない。
ただ、唇がゆっくり動いている。
文字を声に変えずに、体の中へ入れている。
それだけで、印刷された言葉はもう動き始めていた。
カミラが町の角に立っていた。
こちらを見ている。
護衛はいない。
灰色の上着。
短い黒髪。
左手首の烙印跡。
彼女は、俺の顔を見た。
青いインクの跡がまだ少し残っている。
「また、汚したのか」
「今回は国家ではなく印刷所のせいだ」
「印刷所は、だいたい国家よりしつこい」
「経験談か」
「昔の話だ」
「それ、便利だな」
「便利だから使う」
カミラは、俺の横にいるリューリックを見た。
「丁寧な家令」
「はい」
「その主君は、女性の部屋と印刷所の棚を間違える。今後は、移動経路を管理した方がいい」
「厳重に注意しておきます」
「もう注意は遅い」
「左様で」
俺は抗議しようとして、やめた。
抗議すると、また頬が痛くなる気がした。
カミラは一歩近づいた。
声を少しだけ低くした。
「ヴィクトルから、何か受け取ったか」
「受け取った」
「大事にしろ。あの男は、どうでもいいものほど手元に残し、大事なものほど人に渡す」
「昔の仲か」
「昔の話だ」
「それ以外に言えないのか」
「言わないと決めている」
カミラの目は揺れなかった。
ただ、一瞬だけ、疲れて見えた。
ガリレオで三日止め、ヴァルガスで青いインクの動きを見逃し、これからまた中央に報告を書く。
国家を信じて疑う女の背中には、地上の紙の重さが乗っている。
ヴィクトルの背中には、地下の紙の重さが乗っている。
どちらも軽くない。
「カミラ」
「何」
「また、どこかで会うか」
「会いたくはない」
「ひどいな」
「会う時は、たいてい面倒が起きている。あんたと会う時は、その面倒に女の部屋や青いインクまで混ざる」
「それは全部、俺のせいじゃない」
「半分は、あんたのせいだ」
「半分もあるのか」
カミラは、ほんの一瞬だけ口元を動かした。
笑った、というほどではない。
だが、笑いかけた。
すぐに消えた。
「それと」
「うん?」
「あの夜のことは、議題にない」
「今回は何も言ってないだろ」
「顔が言っている」
「俺の顔、印刷されてるのか?」
「騒音が多い」
「顔の騒音って何だよ」
カミラは答えず、踵を返した。
その背中は硬かった。
ただ、俺と目が合った瞬間だけ、また指先がわずかに止まっていた。
それを、今度も見ないふりをした。
◇
町を出る前、ヴィクトルが西門跡に現れた。
帽子を被り直し、手には紙束。
何事もなかったような顔をしている。
「まだ捕まってないのか」
「印刷工は、捕まりそうで捕まらない距離を測るのが仕事だ」
「それ、仕事なのか」
「仕事だ。命がけの余白調整だ」
「うまいこと言うな」
「印刷工だからな」
ヴィクトルは、俺の顔の青いインクを見て笑った。
「それ、しばらく落ちないぞ」
「先に言え」
「先に言ったら、避けただろう」
「避けるわ」
「だから言わなかった」
俺はため息をついた。
リューリックが馬の手綱を整えながら言った。
「殿下、これでしばらく青いインクの記憶が残ります」
「顔に残す必要はない」
「懐だけでなく、お顔にも残る旅でございますな」
「うるさい」
ヴィクトルは、最後に真顔になった。
「レオン」
「うん」
「円の中の目を追うなら、見られていることを前提に動け」
「ああ」
「それと、見られているからといって、全部が敵とは限らない」
「警告者もいた」
「そうだ。見ている者、見られている者、見せられている者。その三つがある。間違えるな」
「面倒だな」
「地下は面倒だ」
「地上も面倒だ」
「なら、空でも飛べ」
「俺は馬にもよく落ちる」
「じゃあ地道に歩け」
ヴィクトルは、短く笑った。
それから、もう一度言った。
「地下は、国家ではない。でも、人は、そこにもいる」
「覚えた」
「忘れるな」
「忘れない」
俺たちは馬に乗った。
ヴィクトルは、帽子を少し持ち上げた。
カミラは、もういなかった。
西門跡の壁には、青い文字の紙が一枚、朝風に揺れていた。
坑道の声を地上へ。
その文字が、俺たちの背中をしばらく見送っていた。
◇
街道に出ると、リューリックが低く言った。
「殿下、お懐がまた増えましたな」
「今度は活字だ。小さいのに、角があって邪魔だ」
「命と名前が乗るものは、小さくても重うございます」
「お前、たまにいいこと言うな」
「たまに、でございますか」
「常に言うと調子に乗る」
「殿下が言えた義理ではございません」
「うるさい」
「左様で」
俺は革袋の上から、活字の硬さを確かめた。
小さい。
だが、角がある。
角があるものは、懐の中で他のものに当たる。
馬蹄鉄。
青銅の札。
止血粉。
白い布。
薬草袋。
地図。
それらに、小さな活字が触れる。
真、という意味の古い字。
真実、ではない。
真。
一文字だけ。
一文字だけだから、持てるのかもしれない。
全部の真実を持てば、人はたぶん潰れる。
だから、いまは一文字だけでいい。
俺はそう思った。
思ったところで、頬の青いインクが乾いて、少しだけ突っ張った。
「リューリック」
「はい」
「顔、まだ青いか」
「はい。かなり」
「どれくらい」
「青いインクに選ばれた男として、申し分ない程度です」
「褒めるな」
「では、たいへん派手です」
「それもやめろ」
リューリックが、ほんの少しだけ笑った。
俺も、少しだけ笑った。
笑うと、頬のインクが引きつった。
痛くはない。
ただ、残る。
インクはそういうものだ。
しばらくは、残る。
俺たちは西へ向かった。
カラドリンの山影が、少しずつ近づいてくる。
地上には国境がある。
地下には道がある。
そのどちらにも、人がいる。
そのことを忘れないように、俺は革袋の中の小さな活字をもう一度だけ、指で確かめた。
◇
──Another Side ハンナ──
その夜、カステリオの納屋で、ハンナは一通の小さな紙を受け取った。
紙は、乾いたパンを売りに来た少年が置いていった。
少年は何も言わなかった。
ただ、パン籠の底から紙を一枚取り出し、薬草棚の隙間に差し込んで、それから犬の頭を撫でて帰った。
犬が吠えなかったので、ハンナは少年を信用した。
動物は、危ない者にはよく吠える。
吠えない相手は、少なくともその時点では、急いで噛む相手ではない。
紙には、青いインクで短く書かれていた。
──坑道はまだ繋がってる。
それだけだった。
ハンナは、しばらく紙を見ていた。
坑道。
繋がっている。
息子が最後に降りた坑道。
ガリレオへ伸びていた坑道。
その先へ、まだ続くかもしれない坑道。
紙の下の方に、小さく三本の青い線が引かれていた。
印の意味は分からない。
だが、書いた者がただの悪戯でないことは分かった。
ハンナは、納屋の奥へ行った。
棚の一番上に、息子の木箱がある。
その隣には、馬蹄鉄を置いていた場所が、ひとつ空いている。
あの馬鹿傭兵に渡した馬蹄鉄の跡だ。
跡だけが、まだ棚の上に残っている。
ハンナは、その空いた場所に触れた。
指先で、木の上をなぞる。
十年置いていた鉄の跡は、薄く黒ずんでいた。
鉄はもうない。
だが、跡は残っている。
人間も、たぶん同じだ。
息子はいない。
だが、降りた坑道の跡が、まだどこかに続いている。
ハンナは、紙を折った。
息子の木箱の中には入れなかった。
箱の隣に置いた。
死んだ者のものではなく、まだ続いている者のものとして。
犬が、土間で一度だけ鼻を鳴らした。
「分かってるよ」
ハンナは低く言った。
「あの馬鹿傭兵、また余計なものを拾ってるんだろうさ」
犬は答えない。
動物は、余計な励ましを言わない。
それがいい。
ハンナは、窓の外を見た。
夜の向こうに、鉱山の稜線が黒く沈んでいる。
坑道は、地上からは見えない。
見えないのに、町の下を通っている。
人の過去も、そういうものだ。
見えないのに、下にある。
上で笑っても、下で繋がっている。
ハンナは、棚の空いた場所をもう一度だけ撫でた。
それから、薬瓶の蓋を閉めた。
明日も、ラバの脚を診る。
犬の虫下しを煎じる。
坑夫の妻の腰痛を診る。
それから、また夜に、青い紙を見る。
泣くかどうかは、その時決めればいい。
今夜は、まだ泣かない。
ハンナはろうそくを吹き消した。
納屋の中で、動物たちはまっすぐ眠っていた。
人間のハンナだけが、棚の上の空いた馬蹄鉄の跡を、目を閉じてもまだ見ていた。
──第七部 了




