第七部 印刷工ヴィクトルと、地下の国の話 ⑤ 〜坑道の声〜
その日の夜、ヴィクトルは俺たちをさらに奥の印刷室へ案内した。
小さな部屋だった。
窓はない。
壁には防音のためか、古い布と紙束が貼られている。
中央に、小型の手刷り機。
その横に、青いインクの壺。
「今夜、刷る」
「何を刷るんだ」
「ヴァルガスの臨時号だ。表の朝刊ではなく、地下の方だ」
ヴィクトルは紙を一枚渡した。
見出しだけが組まれている。
──坑道の声を地上へ。
「また鉱山か」
「この辺りは、地上より地下の方が人口密度が高い」
「何を載せる」
「ガリレオの座り込み。カステリオの支柱事故。ヴァルガス坑道の内部警告。中央の割当増。あと、失踪した坑夫の名簿」
「刷ったら、どうなる」
「町が少しざわつく」
「それだけか」
「それだけで十分な時がある。ざわついた町は、黙っている町より少しだけ死ににくい」
「十分じゃない時は」
「刷る枚数を増やす」
ヴィクトルは活字を組み始めた。
リューリックが横に立ち、自然に手伝い始める。
まるで前からそこにいたように、活字の向き、余白、行間、紙の癖を見て、補助する。
俺は手を出そうとして、ヴィクトルに見られた。
「お前は、何もしないで立っていろ」
「俺にも役が欲しい」
「ある」
「何だ」
「外で足音がしたら、派手に転べ」
「囮役から転倒役に昇格したのか」
「派手な傭兵は、転ぶだけで時間を稼げる」
「俺の人生、そろそろ曲芸団に売れるな」
「国を失った王子の曲芸団か」
俺の手が止まった。
リューリックの手も、一瞬だけ止まった。
ヴィクトルは活字を見たままだった。
言葉の温度は低い。
試している。
ここで動揺するかどうか。
俺は、わざと肩をすくめた。
「王子に見えるか」
「国を失ったことがある目には見える」
「目だけで国籍まで分かるのか」
「印刷工は、文字の欠けを見る。人間の欠けも、少しは見る」
「何者だと思ってる」
「さあな」
ヴィクトルは、活字を一つ置いた。
「ただ、国を失ったことがある目だ。それ以上は聞かない」
「なぜ聞かない」
「聞いた名前は、紙に残したくなる」
その答えは、かなり重かった。
俺は、それ以上何も言わなかった。
印刷機が動き始めた。
リューリックが紙を置く。
ヴィクトルが版を合わせる。
俺が把手を引く。
重い。
意外なほど重かった。
紙一枚に文字を押すだけなのに、全身の力がいる。
「もっとゆっくり引け。圧が急にかかると、字が潰れる」
「こうか」
「もう少し一定に。死なない程度に重く、潰れない程度に軽く」
「人生みたいな説明をするな」
「印刷は、人生より少しだけ正直だ」
紙が一枚刷り上がった。
青い文字が、白い紙に立ち上がる。
坑道の声を地上へ。
濃い青。
乾く前のインクは、血より静かで、しかし血より長く残りそうだった。
◇
夜半、印刷所に兵が来た。
兵、といっても正規兵ではない。
鉱山の内部警備。
黒い上着。
革の手袋。
顔に見覚えはない。
ただ、足音に覚えがあった。
ガリレオの坑道で、別系統の警備が歩いていた足音と似ていた。
重心が後ろにある。
逃げる時より、殴る時を先に考える歩き方だ。
「ヴィクトル・コヴァチはいるか」
表の戸で声がした。
老婆が応対する。
「いないよ。紙を買うなら朝に来な」
「嘘をつくな」
「嘘は若い頃にやめた。いまは必要なことを言わないだけだ」
「退け」
足音が近づく。
ヴィクトルが刷り上がった紙束をリューリックに渡した。
「地下へ」
「あなたは」
「残る」
「捕まるぞ」
「捕まるのは慣れている」
「慣れるな」
「印刷工は、指を挟むのも、捕まるのも、だいたい一度は経験する」
「人生が雑だな」
「お前に言われたくない」
俺は、外へ出ようとした。
ヴィクトルが腕を掴んだ。
「派手な傭兵は、今だ」
「転べばいいんだな」
「できるだけ派手に。できれば相手を巻き込め」
「任せろ。俺の人生で一番安定した技能だ」
俺は表の部屋へ飛び出した。
ちょうど黒い上着の男が戸を蹴破って入ってきたところだった。
俺は勢いよく走る。
足元の紙束を踏む。
滑る。
予定どおりだ。
ただし、予定よりよく滑った。
「うおっ!」
俺は本気で転んだ。
黒い上着の男に体当たりする形になった。
二人まとめて紙束の山へ突っ込む。
紙が舞った。
青いインクの試し刷りが、空中でひらひら落ちる。
男が怒鳴った。
「何だ、お前は!」
「通りすがりの派手な傭兵だ!」
「意味が分からん!」
「俺もだ!」
男が拳を振り上げた。
俺は横へ転がる。
拳が床に当たる。
痛そうな音がした。
俺の右肩も痛い。
痛いが、今日はまだ死なない。
死なない程度の痛みは、会話の材料だ。
「リューリック!」
「はい」
奥から、リューリックが紙束を抱えて走る。
珍しく走っている。
その後ろでヴィクトルが青いインク壺を手に取った。
投げた。
壺は、黒い上着の男の胸に命中した。
青いインクが弾けた。
男の顔が、半分青く染まる。
俺は床でそれを見て、思わず言った。
「仲間だな」
「殺すぞ!」
「青い顔で言うと説得力が落ちる」
ヴィクトルが俺の襟首を掴んだ。
「逃げるぞ」
「俺、襟首を掴まれる旅が多すぎる」
「派手だからだ」
「それ、便利な説明だな」
俺たちは地下へ逃げ込んだ。
階段を降りる。
地下道の奥へ。
床は湿っていた。
紙束を抱えたリューリックが先頭。
ヴィクトルがその後ろ。
俺が最後尾。
背後で黒い上着の男たちの足音がした。
狭い地下道に響く足音。
リューリックが振り返らずに言った。
「殿下、追われております」
「分かってる」
「足音、四名。うち一名は、先ほど青い顔になった方です」
「そこまで分かるのか」
「足音が怒っております」
「お前、本当に何者だよ」
「家令でございます」
地下道の途中で、ヴィクトルが左の壁を押した。
壁板が開く。
細い通路。
俺たちはそこへ滑り込んだ。
黒い上着の男たちは、まっすぐ前へ走っていく。
足音が遠ざかった。
しばらく、誰も声を出さなかった。
ヴィクトルが、小さく笑った。
「派手な傭兵、いい転び方だった」
「褒められてる気がしない」
「褒めてる。うちの地下劇団に入れる」
「俺は傭兵だ」
「似たようなものだ。どちらも観客が予期しない方向へ倒れる」
リューリックが、紙束を抱えたまま言った。
「殿下、お顔がまた青くなっております」
「俺は、こういう顔で生まれたわけじゃない!」




