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第七部 印刷工ヴィクトルと、地下の国の話 ④ 〜昔の話〜

地下室から戻ると、印刷所の表に老婆が立っていた。


 顔が険しい。


「ヴィクトル。監察官だ」


「誰だ」


「カミラ・パヴェル」


 俺は思わず顔を上げた。


 頬が、もう一度痛んだ気がした。


「知り合いかい」


 老婆が俺を見た。


「殴られた仲だ」


「それはだいたい知り合いだね」


 ヴィクトルが、初めて少しだけ顔を硬くした。


「カミラか」


「知ってるのか」


「昔の話だ」


 それ以上言わなかった。


 昔の話だ、という言葉は、言わないための最も短い壁だ。


 その壁を、今ここで壊す必要はない。


「お前たちは奥へ。あの女は目がいい。息も殺しておけ」


「逃げるのか」


「隠れるんだ。逃げると追われる。隠れると相手が探す」


「違いは?」


「こちらの心臓の音だ」


 ヴィクトルは俺たちを活字棚の後ろに押し込んだ。


 狭い。


 紙束と活字棚の間。


 俺の肩が棚に当たる。


 活字が、また少し揺れた。


「動くな」


 ヴィクトルが低く言った。


「動くと、今度は死亡記事の活字が落ちる」


「縁起でもない」


「印刷所に縁起はない。締切だけがある」


 表の戸が開いた。


 カミラの声がした。


「ヴィクトル・コヴァチ」


「監察官。紙問屋に何の用だ」


「表向きの看板を読むために来たわけではない」


 沈黙。


 活字棚の隙間から、カミラの横顔が少し見えた。


 灰色の上着。


 短い黒髪。


 左手首の烙印跡。


 昨日より少し疲れている。


 ガリレオで三日止めた責任を、もうどこかへ報告したのかもしれない。


「青いインクが、外国人傭兵を拾ったと聞いた」


「街道には傭兵が多い」


「青い顔の傭兵は少ない」


 カミラの視線が、活字棚の方を一瞬だけ掠めた。


 俺は呼吸を止めた。


 見つかったか。


 見つかった。


 たぶん、見つかっている。


 ただ、カミラは何も言わなかった。


「ヴィクトル」


「何だ」


「三日だ」


「何が三日だ」


「ガリレオの件で、私は三日分の報告書を書く。中央は喜ばない」


「そうだろうな」


「この町でも、同じことが起きるなら、私は二度目の報告書を書くことになる」


「それは気の毒だ」


「私の気の毒ではない。人の話だ」


 ヴィクトルは何も言わなかった。


「円の中の目。知っているか」


 カミラが言った。


 俺の胸の中で、何かが一拍止まった。


 ヴィクトルの声は変わらなかった。


「知らない」


「嘘が下手になったな」


「昔から下手だ」


「そうだな。昔から、肝心なところだけ黙る男だった」


 短い沈黙。


 そこに、過去が少しだけあった。


 カミラとヴィクトルの間に、何かがある。


 元同志か。


 元同僚か。


 あるいは、もっと湿り気のない、しかし深い関係か。


 今は分からない。


 分からないままにしておくべきだ。


「気をつけろ」


 カミラは言った。


「何に」


「見られている」


「誰に」


「見ている者に」


「名前は」


「まだない」


「名前のないものが一番厄介だ」


「ええ」


「監察官が、俺に忠告するのか」


「監察官としてではない」


「では、何としてだ」


「昔、同じ場所にいた者としてだ」


 カミラは、そこで初めてヴィクトルから視線を外した。


「それ以上は聞くな。昔の話だ」


 ヴィクトルが隠すために使った言葉を、今度はカミラが同じように使った。


 それだけで、二人の間にあるものの形が少し見えた。


 同じ言葉で扉を閉じる相手は、同じ場所に立ったことがある相手だ。


 カミラは踵を返した。


 戸口で一度だけ立ち止まった。


「それから、外国人傭兵に伝えておけ」


 俺は息を止めたままだった。


「女性の部屋と印刷所の隠し棚は、勝手に覗くな」


 ヴィクトルが、少しだけ眉を上げた。


「何の話だ」


「昔の話ではない」


 戸が閉まった。


 俺は活字棚の影で、ゆっくり息を吐いた。


 リューリックが隣で、声を殺して言った。


「殿下」


「言うな」


「未記録扱いの件が、監察官の口から外部流出いたしました」


「言うな!」


 ヴィクトルが棚の前に立った。


 俺を見た。


「女の部屋を覗いたのか」


「覗いてない。遭難だ」


「遭難する部屋の選び方が派手だな」


「全員、俺に派手って言うな」


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