第七部 印刷工ヴィクトルと、地下の国の話 ③ 〜地下の国〜
印刷所の奥で、ヴィクトルは鍵を三つ開けた。
一つ目は棚。
二つ目は床板。
三つ目は、床板の下の鉄輪。
鉄輪を引くと、床がわずかに持ち上がった。
地下へ続く階段が現れた。
リューリックの顔が、わずかに変わった。
「地下ですか」
「地下だ」
「ここ最近、地下が多すぎる」
俺が言うと、ヴィクトルは振り返らずに答えた。
「地上がまともなら、地下は流行らない」
階段を降りる。
空気が冷えた。
地下室は広くなかった。
だが、壁一面に紙束が積まれていた。
新聞。
名簿。
手配書。
祈祷文に見せかけた暗号紙。
封筒。
赤子の出生記録。
死者の名前。
鉱山事故の警告書。
いろいろな紙が、分類され、紐で縛られている。
紙の国だった。
ただし、旗はない。
地図もない。
国境もない。
紙の束だけが、誰かの生存を支えていた。
「ここは何だ」
「地下の郵便局。地下の新聞社。地下の戸籍係。地下の葬儀屋。呼び方は、その時々で違う」
「国家ではないのか」
「国家ではない。国家を名乗るには、税を取り、軍を持ち、旗を立て、人に従えと言わなければならない。ここには、それがない」
「じゃあ、何をしている」
「名前を消されないようにしている。誰がどこで生まれ、誰がどこで死に、誰がどこへ逃げたか。紙に残す。それだけだ」
「それが何になる」
「何にもならない時もある」
ヴィクトルは紙束を一つ手に取った。
紙の端は擦り切れ、何度も誰かの手を渡ったことが分かる。
「だが、何かになる時もある。生きている証明。死んだ証明。誰かが待っている証明。国家が消した人間を、こちらで消さないための証明だ」
俺は紙束を見た。
その中に、赤子の出生記録があった。
ガリレオの助産院のものと似た紙だった。
リータの白い布の記憶が、懐の中で音もなく揺れた。
生まれた者を記す紙。
死んだ者を記す紙。
逃げた者を記す紙。
どれも軽い。
だが、まとまると重い。
「お前らは何者だ」
俺は訊いた。
「青いインク」
「組織名か」
「俗称だ。正式な名前はない」
「名前がない組織か」
「名前があると、潰される」
「便利だな」
「不便だよ。領収書が切れない」
ヴィクトルは口の端だけを上げた。
「俺たちは、帝国から逃げる者を通す。イタリカから逃げる者も通す。カラドリンから逃げる者も、時々通す。王国へ向かう者も、王国から逃げる者もいる」
「節操がないな」
「人を通すのに、旗を選ぶ余裕はない。ただし、金は取る」
「急に現実的だな」
「地下も腹が減る」
地下の奥に、さらに小さな扉があった。
その扉には、青いインクで小さな印が描かれている。
丸ではない。
目でもない。
ただ、斜めに引かれた青い線が三本。
「この印は」
「うちのものだ」
「円の中の目ではないな」
ヴィクトルの手が、ほんの少し止まった。
やはり知っている。
俺はそう判断した。
「見たのか」
「ああ。リヴェン、リンデン、シュタールベルク、カステリオ、ガリレオ。場所も相手も違うのに、同じものが出てくる」
「なら、覚えておけ。あれは、うちじゃない」
「別の地下か」
「別の地下だ。ただし、うちの道を使うことがある。こちらが通したい相手に紛れたり、通したくない相手を先回りしたりする」
「何者だ」
「分からない。分からないから厄介なんだ」
「目的は」
「人を見ている。誰がどこを通り、誰が誰と会い、誰が死に、誰が生きたか。見ている。そういう気配がある」
「見られている側の印かもしれない」
「その可能性もある。見ている者の印なのか、見られている者につけられた印なのか、それすら決めきれない」
俺とリューリックは顔を見合わせた。
カステリオの警告者。
ガリレオの刺青の男。
リヴェン。
リンデン。
シュタールベルク。
同じ印が、敵側にも、警告者にも、使者にも出てきた。
敵味方の印ではない。
見ている者、あるいは見られている者の印。
情報は増えた。
だが、答えには届かない。
答えに届かない情報は、懐でいちばん重くなる。




